1997年10月18日

杉原氏の出白に関する私見(在庁官人説の疑問)

備陽史探訪:79号」より

木下 和司

通説では杉原氏は備後生え抜きの武士で国衙在庁官人として勢力を伸ばした一族とされている。しかし、南北朝初期の杉原氏の中には幕府奉行人を務めた人物がいる。例えば、「雑訴決断所沙汰條書」(『建武年間記』所収)の奥州引付一番に合奉行として杉原七郎入道が記されている。また、南北朝期の惣領杉原光房には室町幕府引付奉行人であった確証がある。『結城文書』には康永三年(一三四四)三月に行われた幕府引付方の編成替えを示すと考えられる史料が残されており、引付方五番に杉原左近将監の名がみえる。この左近将監が光房に比定される根拠は『浄土寺文書』暦応三年(一三四一)十月二十三日付け「足利直義下知状」の中に、「相尋守護人細川刑部大輔頼春・杉原左近将監光房之処」なる文言があることに依る。

南北朝期の幕府奉行人は前代より世襲の家系が多いことを考えると、杉原氏も鎌倉時代より幕府奉行人であった可能性が高いと思われる。そこで杉原氏の家系で鎌倉期に幕府奉行人を務めた人物の有無を調べてみた。その結果、光房の祖父にあたる杉原主計允親綱に幕府奉行人の確証を認めることができた。

鎌倉幕府問注所執事であった太田時連の公務日誌で現存する永仁三年(一二九三)五月二日の条に

且は安富大蔵丞、杉原主計允、大田三郎を執筆に入れるべきの由、同じく仰せ出されおわんぬ

とあって、杉原主計允が引付方の執筆に加えられたことが分かる。鎌倉時代末に成立したと考えられる幕府訴訟手続きの人間書である『沙汰未練書』によれば執筆とは引付衆中の記録人のことだと説明されている。また、文保二年(一三一八)十月の「尾張富吉庄雑掌申状案(『壬生家文書営局所領』)には「永仁六年(一二九六)に焼失した関東下知状を杉原主計允親綱を奉行人として写しを作成した」と書かれており親綱が引付奉行人であったことが確認できる。

以上から、杉原氏は鎌倉時代に幕府奉行人を務めた家系である可能性が高いと思われる。しかし、今のところ杉原氏の中で鎌倉時代に奉行人としての足跡を確認できるのは親綱だけであるから、杉原家が代々幕府奉行人であったと家系だとは断定できない。もう一つ杉原氏が鎌倉時代から幕府奉行人であった可能性を示唆する史料として、杉原氏の同族・大和氏にも鎌倉時代後期に奉行人を務めた人物を確認できることがあげられる。『尊卑文脈』によれば大和氏は杉原氏と同じく伊勢平氏に属する家系で、杉原氏の祖光平の兄弟・行平から分かれた家系である。

大和氏の中で幕府奉行人を務めたことを確認できるのは、鎌倉時代末期に属する大和政盛とその養子盛秀の二人である。盛秀については嘉暦元年(一三二六)八月廿日付け「鶴岡八幡宮相撲奉行猿渡盛重子息盛信和与状」(『金子文書』)に「一番引付大和右近将監政盛を奉行人として」とある。

また、盛秀については元徳二年(一三三〇)三月廿四日付け「金沢貞顕書状」(『金沢文庫所蔵文書』)に「大和右近大夫(政盛)嫡子佐渡太郎左衛門を合奉行に加える」とある。

以上の考察から、杉原氏は備後生え抜きの武士というよりも、「尊卑文脈」にみえるように伊勢平氏の流れをくみ、幕府奉行人を務めた家系と考えた方がよいと思われる。

今後より詳細に鎌倉期の史料を調査して精密な論証を試みてみたいと考えている。