1997年04月19日

木之上遺跡について(福山市神辺町東中条)

備陽史探訪:76号」より

松岡 正三

特別寄稿

神辺町東中条と三谷との境にある木之上山標(高三二九・四m)の山頂一帯に、城跡と寺院跡の複合遺跡がある。

地元木之内町内会では、平成三年三月に、「木之上遺跡を守る会」を結成して、遺跡の整備と保存に努めている。

平成四年十一月二十二日~二十三日にわたる備陽史探訪の会城郭研究部会の方々の手による調査によって、南北三五九m、東西二三二mにわたる広大な遺跡であることが判った。『山城探訪 福山周辺の山城三〇選』にも採り上げられ、田口会長の要請もあり専門家ではないが、この遺跡について纏めてみることにした。

木之上遺跡において、田口会長とともに。

木之上遺跡において、田口会長とともに。

(1)木之上城について

室町時代の応永年中(一三九四~一四二七)に築城された。応永二十九年(一四二二)ともいわれる。

城主金尾氏の菩提寺である金尾山龍華寺の寺記によれば、城主の戒名、没年は次の通りである。

金尾太郎光国
   (大徳院殿柳揚大居士)
応永十一年(一四〇四)三月三日没
金尾近江守光利
   (雲山院殿洞雲大居士)
永享三年(一四三一)五月二日没
一、金尾遠江守信貞
   (龍華寺殿前遠江守松巌道貞大禅定門)
宝徳二年(一四五〇)三月二日没
二、金尾出雲守信道
   (月光院殿雲岳義信大居士)
長禄二年(一四五八)五月十日没
三、金尾兵庫守信実
   (雲峰院殿洞霧仁智大居士)
応仁二年(一四六八)十月四日没
四、金尾伊豆守信義
   (戒光院殿智信覚道大居士)
文明十二年(一四八〇)八月十五日没
五、金尾常陸守信虎
   (華厳院殿禅定道元大居士)
文亀三年(一五〇三)四月二十三日没
六、金尾丹波守光信
   (誓向院殿悟道本阿大居士)
永正十四年(一五一七)三月二十日没
七、金尾三河守信高
   (信解院殿智徳理園大居士)
天文五年(一五三六)十月十八日没
八、金尾長門守信国
   (願正寺院月峰順信大居士)
天文十九年(一五五〇)六月十三日没

『備後古城記』などによれば、城主として金尾遠江守信貞の名前しか載っていない。『水野記』によれば、龍華寺のところで、「金尾山龍花院禅宗宝徳二年(一四五〇)金尾遠江守建之」とある。

これも遠江守の死後の三月三日以後、二代の出雲守が先祖の菩提を供養するため龍華寺を建立した、と考えるのが至当と思う。その理由は、戒名に前「遠江守」とあるからである。尼子経久(一四五八~一五四一)が大軍を率いて、備後国へ侵入してきたのは、六代丹波守の時代からである。

経久が亡くなった翌年の天文十一年(一五四二)になると、大内義隆は尼子氏の本拠地出雲の富田城を包囲攻撃した。しかし兵糧が欠乏したため、総退却を余儀なくさせられた。その失敗から義隆は、備後の制圧に力点をおき、最初の攻撃目標を尼子方の神辺城主山名理興に向けた。

天文十二年(一五四三)から実に七ヵ年に及ぶ神辺城合戦が続けられた。経久の孫の尼子晴久(一五一四~一五六二)は目黒秋光らを救援に送ったが間に合わず、九月四日に理興は富田城へ敗走し、神辺城は落城した。その時から備後地方の国人衆は、大内・毛利氏の支配下に入った。時に天文十八年(一五四九)であった。

次いで尼子方の木之上城、四川滝山城が、毛利方によって攻められることになる。『郡制二十五年』(深安郡)によると、中条は四川滝山城主(加茂町北山)宮越後守入道光音によって支配されていた、と記載されている。

四川滝山城は、陶晴賢の命をうけた毛利氏が、天文二十年(一五五一)七月二十三日から攻撃をかけ、数日後に陥落し、城主宮光音は備中松山城へ逃走したという。嫡男は剃髪して、西運寺(当時広瀬村上野)に入寺し、天文十九年(一五五〇)より相続して十七世永世法師となる。昭和二十五年(一九五〇)四月二十一日には、四川滝山城落城四百年顕彰追悼法要が、上野西運寺で盛大に勤められた。

従って、木之上城の落城は、神辺城の落城と四川滝山城の落城との間といえる。八代長門守信国が、戦いに破れて、木之上城山麓の龍華寺のある側の反対側の政角に、庵を結び僧となる。木之上山願正寺へと、発展変遷していく。弘治年中(一五五五~一五五七)開基という。信国の院号が、願正寺院となっているので、領ける。元天台宗であったが、寛文七年(一六六七)に浄土真宗に改宗し、文政六年(一八二三)に現在地中組に移転した。

ところで、金尾氏の菩提寺龍華寺の初代住職は桂巌禅師(一四〇八~一四八九)であった。岡山県芳井町の重玄寺の法弟で、宝徳二年(一四五〇)に就任した。

三代兵庫守信実の弟が、出家して僧となり角禅和尚と名乗り、龍華寺禅(宗仏通寺派)の住職になったので、初代桂巌和尚は、笠木山(五一二・五m)に新たに高松寺(禅宗仏通寺派)を創建した。時に康正元年(一四五五)で、桂巌和尚は四十八歳であった。

龍華寺は、慶長元年(一五九六)に火災に遭ったが、秋山和尚により正保四年(一六四七)に再興された。

なお、金尾遠江守信貞公四百遠忌が、嘉永二年(一八四九)三月二日に行われ、五百遠忌は昭和二十五年(一九五〇)四月三日に、龍華寺において挙行された。その時近隣から一九万八〇八円五〇銭の浄財を集め、釣鐘を新調したという。

また金尾遠江守信貞は、「たねのみやけ」(大和朝廷の直轄地から収穫した稲米を蓄積した倉)の跡地(広瀬村北山)に屋敷を建て、別館として利用したという。金尾氏没落後も、その裔孫が金尾姓を名乗り、中条・三谷・北山・高山方面に分散しているという。

永禄元年(一五五八)に杉原盛重は、吉川元春の推挙により、神辺城主となる。盛重の弟、三谷豊前守直重が尾道より来城し、木之上城主となる。

天正十五年(一五八七)に「山城廃止令」により、木之上城は廃城になった。城主三谷豊前守は、長和村片山城へ移る。兄盛重は天正九年(一五八一)十二月に既に亡くなっている。

因みに、天正十九年(一五九一)に毛利輝元は、元就の七男毛利元康を神辺城主として、富田城より入城させる。慶長五年(一六〇〇)に関が原の役後、毛利氏が封を削られ、福島正則の家老の福島丹波守正澄が神辺城主となる。

龍華寺の寺領は、田畑一丁七反余りあったが、福島丹波守によってすべて没収された。

元和五年(一六一九)福島正則が信濃川中島へ減封されると、水野日向守勝成が、神辺城へ入城する。

水野家断絶後、検地の結果、余剰ができたので、中条は幕府直轄の天領になる。老中筆頭阿部正弘が、論功により一万石加増になり、嘉永六年(一八五三)から中条は阿部藩領となる。

木之上城は八代にわたる金尾氏の居城として約一三〇年間、三谷豊前守の時代を含めると、約一六五年間存在したことになる。

(2)木之上寺について

木之上寺の創建は、『神辺町史』によると、昭和二十八年(一九五三)に出土した巴瓦から、京都の六勝寺と同時代のもの、と推定している。

最近古老の話から、私は天仁年間(一一〇八~一一〇九)と特定した。従って六勝寺の内、承暦元年(一〇七七)建立の法勝寺、康和四年(一一〇二)建立の尊勝寺は、すでに建てられていたが、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺は未だ建立されていなかったことになる。

平成二年四月に、「洪武銅銭」が出土した。応安元年~応永元年(一三六八~一三九八)の時代のものである。明との貿易開始が応永十一年(一四〇四)で、応永十八年(一四一一)に一時中断し、永享四年(一四三二)に再開されているので、寺に賽銭として、使われたものと思う。これらから、木之上寺は木之上城築城まで、存在したと思われる。

従って木之上寺は、約三一四年間存在したことになる。

空海が唐から帰国した三十三歳のとき、木之上山から一.二キロ離れた所の広山寺を創建した。大同元年(八〇六)の時である。明王院は翌大同二年に、空海によって創建されている。国分寺の創建は、天平十三年(七四二)であるから、山岳寺院がこの頃からつくられた、と考えることはできないだろうか。

中国の五台山を模してつくったとも、『神辺町史』には書いているから、瓦葺きの寺院の以前に、草や藁葺きの寺院があったとも考えられる。

(3)茨城について

奈良時代養老三年(七一九)に、「備後国安那郡の茨城、芦田郡の常城を停む」と『続日本紀』に書かれている。

七世紀朝鮮との関係が悪化し、唐と新羅の侵攻に備え、北九州から瀬戸内海を経て、大和に向かう道々に、百済人による朝鮮式山城が築かれた。

当時穴の国であったこの地方は、(穴が安那になっていく)、穴の海といって西は網引の辺まで入りくんでいたし、東は中条木之内の辺まで海であった。このことは、「中条鰯」という人魚伝説によっても判る。

穴の海の湾岸防備に、常城や茨城が築城されたのである。「常から府中市本山町にわたる一帯」に常城を、「いもばらから木之上山一帯」に茨城を築城した、と考える。「いもばらぎ―いばらき―茨城」となった、と推定する。

このことについては、豊元国氏が『芸備文化』(昭和三十三年)に、蔵王山(二二五m)を茨城である、と特定されている。しかし蔵王山は、養老五年(七二一)には深津郡になっているし、木之上遺跡の俗にいう鐘撞堂跡、二の九跡、御殿丸跡等の巨大な石積みをみると、茨城の可能性が高い、と思う。

御殿丸跡に立てば、遥か南の方向に蔵王山が見える。また一〇キロ離れた常城から「のろし」による合図も可能である、と考える。

(付記)

一、金尾氏の出自については、埼玉県秩父郡金尾村で、先祖には滋賀県小野村の小野妹子王がいる。金尾太郎光国が山陰地方の尼子氏に与し、孫の金尾遠江守信貞が木之上城主となり、尼子方の最前線の城として活躍した、ものと考える。

二、三谷には、金山、銀山と書き、いずれも「かなやま」と呼ぶ地名ある。昔は金や銀それに銅が産出していたもの、と思われる。また屋敷跡とみられる、桑畑もあった。

三、木之上寺の跡地から出土した巴瓦と六勝寺の巴瓦が、同じ文様でることについては、今後の検討課題である。

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