備陽史探訪:100号」より

出内 博都

千田町横尾にある浄教寺は、今は無住であるが、明治初年には最初の啓蒙所になった由緒をもつ寺である。在郷町横尾をかかえる寺だけに、素晴らしい墓も多い。その中に一つだけ「法界地蔵塔」がある。総高一八五センチの堂々たる石仏であるが、これだけでは他に多くあるものと変わりはない。しかし、この像に「釈容貞信女」という女性戒名があり、台石にも施主「指屋 於鳴遠(さしや おなお)」、さらに石造の花立の側面には「さしや おまつ」と彫られている。関係者すべてが女性という地蔵塔は、村内でこれ一基のみである。

村内に存在する十基にあまる法界地蔵塔は、まったく戒名のない法界万霊供養塔か、夫婦戒名の地蔵塔である。しかもその場合、女性は単に「妻」とあるだけで、名前は分からない場合が普通である。こうした時代的背景のなかで、女性が独立人格として名前を残すことは異例のことではないだろうか。こうした興味から、この一群の同時代の墓石を調べたら左上表のようになった。

浄教寺墓地に残る関連墓石一覧表

No. 年号 西暦 墓石形態 銘文 備考(過去帳による補充)
天明四年 一七八四 個人墓(信女) 指屋宗吉母  
寛政十年 一七九八 夫婦墓   過去帳に寛政十一年(一七九九)宗兵衛=惣吉養父とあるものか
享和三年 一八〇三 夫婦墓   没年は妻か。惣吉は文政十三年(一八三〇)の過去帳あり
文化二年 一八〇五 個人墓(信士) 三谷武助 宗吉四男
文化九年 一八一二 夫婦墓 三谷惣兵衛夫婦  
文政三年 一八二〇 個人墓(信士) 三谷久兵衛 宗吉末子、宗吾弟
文政五年 一八二二 個人墓(信女) さしや おその 宗吾娘
文政五年 一八二二 法界地蔵墓 釈 容貞信女  
文政六年 一八二三 個人墓(信女) さしや おまつ 宗吾娘
文政九年 一八二六 夫婦墓 指屋惣五郎夫婦 過去帳には「十二年十月四」とある
天保二年 一八三一 個人墓(童子) 指屋松二郎  

この表から考えられる点として①の女性は「指屋宗吉母」とあり、〇〇妻になっていないし、夫に当たると思われる人物の墓も見あたらない。②③⑤の夫婦墓はすべて男性の夫婦姓(三谷姓)となっており、④⑥の男性独身墓も三谷姓になっている。⑦の女性墓は「さしや おその」と女性の単独名になっている。

⑧がこの墓地の中心になる地蔵塔である。⑦と⑧は墓地内の位置は少し離れているが、忌日が「文政五壬午六月十六日」と一致するので、同一人物の墓と供養塔ということがわかる。次に⑨の墓は石造花立を寄進した「さしや おまつ」という立派な人格名をもつ女性の単独墓である。ここまでみると、女性だけが「指屋」を名乗り、男性および夫婦は「三谷」を名乗る傾向が認められる。

しかし、ただ一つ例外として⑩の夫婦墓がある。夫婦墓でありながら「指屋」を名乗り、しかも妻の名が出ていない。この墓地の地蔵塔にまつわる三人の女性のうち、施主として中心になった「おなを」の墓が見あたらないのはどういうことだろうか…。この⑩の墓は他の墓より一回り大きく、加工も丁寧であり、石塔の左側面に御和讃(ごわさん)が刻まれている。それは次のように浄土真宗の教義に沿うものである。

どう那里とまかす他力や木の葉舟
           桂花
  かか類小春も不可称不可思議
     白二庵原

(文は草書体)

女性の方が上の句を作り、男性が下の句を和した合作で、二人の雅号も入っている。雅号や歌の形式からみて、妻として、女性としての地位は確立していたと思える。

井原市高屋に現存する「三谷家過去帳」を参考に一部想定系図を示すと左記系図のようになる。また、系譜は不明だが、その他に記載のある名前とその死亡年月日をあげると次のとおりである。

井原市高屋三谷家過去帳による想定系図
井原市高屋三谷家過去帳による想定系図

久兵衛(安永二年(一七七三)九月一〇日)。
乙女(安永六年(一七七七)十月一九日)。
久兵衛妻(天明五年(一七八五)五月二六日、惣兵衛実母)。
宗兵衛(寛政二年(一七九〇)六月一二日、惣吉養父)。
宗兵衛妻(文化九年(一八一一)一〇月二四日)。

墓地がたびたび移動しているのですべての墓があるとはいえないし、過去帳にも錯乱(さくらん)があり、後世に訂正・削除があるので、正確を期すことは難しいが、次の事項はおおよそ正しいと思われる。

①忠六・於ゆ里¨宗吉の関係はこのままであるが、忠六についてはここに墓はなく、宗旨も違い、他の寺にあると記している(その寺は記録漏れした)。

②宗吉・武助・久兵衛の関係は記録のままである。したがって武助・久兵衛の長兄に惣五を想定せざるをえない。

③於奈美・お園・おまつ(松)は惣五の娘という記録がある。

④奈をには享年七八の記載があり、惣五郎妻と明記してある。奈をと於奈美・お園・おまつの関係を示す記録は不明である。

総合的に判断すると、次のようなことがいえるのではなかろうか。

年代順に二番に古い②の夫婦墓が銘文不明であるが、過去帳に寛政十一年宗兵衛があり、その註に惣吉養父がある。また、過去帳によれば、③の惣吉の没年が文政十三年(一八三〇)五月十八日とあり、享和三年(一八〇三)は妻の没年でないか?宗を「そう」と読めば、宗吉の寡夫の暮らしも長いので晩年、「宗」を「惣」に改名したと考えると、①②③の三基の墓には、於ゆ里・宗吉(惣吉)・宗兵衛の三人にまつわる人間模様が窺える。

すなわち①の女性が「さしや」という屋号を名乗るにふさわしい条件をつくり、⑦のおそのにいたって名実ともに「さしや おその」として独立的地位を確立し、「指屋初代」として地蔵供養塔を建て、より懇(ねんご)ろに供養されるようになったものであろう。

この供養塔建立の中心人物「おなを」は、過去帳では惣五郎妻として、没年安政七年(一八七〇)三月一日、七八歳となっており、天明二年(一七八二)生まれということになる。おそのの没年には四十歳になっており、後継者として供養塔を建立したのだろう。夫惣五郎が文政九年(過去帳は文政十二年に死去したとき⑩の墓をつくった経緯は分からないが、その後、三十年間、幕末の混乱のなかで「さしや」を維持していったものと思われる。一子松二郎に先立たれ、せめてもの願いで「さしや」の名を残したのだろう。これより後の大きな墓はすべて三谷姓である。④の通り、おなみ・おその・おまつの姉妹とおなをの続柄は不明である。

こうした女性の独立的地位が確立された要因は何だったのだろうか。その謎を解く鍵が「指屋=さしや」にあるのではないだろうか。「さし」という語について、「日本民俗大事典」には、

サシは刺繍することを言う。古くは労働着を丈夫にしたり、作業を妨げる魔力を追い払うための刺繍をした

とあり、独自の仕事場と技術を必要とする職業である。特定の職人なだわ作業着としての刺子頭巾・刺子半纏(はんてん)あるいは武道着・陣羽織・神祇装東等々、刺繍の需要はかなりあったのだろう。

もともと三谷家は紺屋(こうや)を経営していたようであるが、紺屋経営の一面で、こうした布地と女性の技を主体とした「さし屋」も経営していたのだろう。単に刺繍のみではなく、高級呉服の仕立てなどの分野まで手掛けていく専門職として、女性主体の「女の館」があったのではなかろうか。町人文化発展の頂点にあたる文化。文政時代、在郷町横尾の発展の一面を示すものであろう。

http://bingo-history.net/uploads/2016/03/1d2ed7f029d03eb57f542bfd686efcb2.jpghttp://bingo-history.net/uploads/2016/03/1d2ed7f029d03eb57f542bfd686efcb2-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:100号」より 出内 博都 千田町横尾にある浄教寺は、今は無住であるが、明治初年には最初の啓蒙所になった由緒をもつ寺である。在郷町横尾をかかえる寺だけに、素晴らしい墓も多い。その中に一つだけ「法界地蔵塔」がある。総高一八五センチの堂々たる石仏であるが、これだけでは他に多くあるものと変わりはない。しかし、この像に「釈容貞信女」という女性戒名があり、台石にも施主「指屋 於鳴遠(さしや おなお)」、さらに石造の花立の側面には「さしや おまつ」と彫られている。関係者すべてが女性という地蔵塔は、村内でこれ一基のみである。 村内に存在する十基にあまる法界地蔵塔は、まったく戒名のない法界万霊供養塔か、夫婦戒名の地蔵塔である。しかもその場合、女性は単に「妻」とあるだけで、名前は分からない場合が普通である。こうした時代的背景のなかで、女性が独立人格として名前を残すことは異例のことではないだろうか。こうした興味から、この一群の同時代の墓石を調べたら左上表のようになった。 浄教寺墓地に残る関連墓石一覧表 No.年号西暦墓石形態銘文備考(過去帳による補充) ①天明四年一七八四個人墓(信女)指屋宗吉母  ②寛政十年一七九八夫婦墓 過去帳に寛政十一年(一七九九)宗兵衛=惣吉養父とあるものか ③享和三年一八〇三夫婦墓 没年は妻か。惣吉は文政十三年(一八三〇)の過去帳あり ④文化二年一八〇五個人墓(信士)三谷武助宗吉四男 ⑤文化九年一八一二夫婦墓三谷惣兵衛夫婦  ⑥文政三年一八二〇個人墓(信士)三谷久兵衛宗吉末子、宗吾弟 ⑦文政五年一八二二個人墓(信女)さしや おその宗吾娘 ⑧文政五年一八二二法界地蔵墓釈 容貞信女  ⑨文政六年一八二三個人墓(信女)さしや おまつ宗吾娘 ⑩文政九年一八二六夫婦墓指屋惣五郎夫婦過去帳には「十二年十月四」とある ⑪天保二年一八三一個人墓(童子)指屋松二郎  この表から考えられる点として①の女性は「指屋宗吉母」とあり、〇〇妻になっていないし、夫に当たると思われる人物の墓も見あたらない。②③⑤の夫婦墓はすべて男性の夫婦姓(三谷姓)となっており、④⑥の男性独身墓も三谷姓になっている。⑦の女性墓は「さしや おその」と女性の単独名になっている。 ⑧がこの墓地の中心になる地蔵塔である。⑦と⑧は墓地内の位置は少し離れているが、忌日が「文政五壬午六月十六日」と一致するので、同一人物の墓と供養塔ということがわかる。次に⑨の墓は石造花立を寄進した「さしや おまつ」という立派な人格名をもつ女性の単独墓である。ここまでみると、女性だけが「指屋」を名乗り、男性および夫婦は「三谷」を名乗る傾向が認められる。 しかし、ただ一つ例外として⑩の夫婦墓がある。夫婦墓でありながら「指屋」を名乗り、しかも妻の名が出ていない。この墓地の地蔵塔にまつわる三人の女性のうち、施主として中心になった「おなを」の墓が見あたらないのはどういうことだろうか…。この⑩の墓は他の墓より一回り大きく、加工も丁寧であり、石塔の左側面に御和讃(ごわさん)が刻まれている。それは次のように浄土真宗の教義に沿うものである。 どう那里とまかす他力や木の葉舟            桂花   かか類小春も不可称不可思議      白二庵原 (文は草書体) 女性の方が上の句を作り、男性が下の句を和した合作で、二人の雅号も入っている。雅号や歌の形式からみて、妻として、女性としての地位は確立していたと思える。 井原市高屋に現存する「三谷家過去帳」を参考に一部想定系図を示すと左記系図のようになる。また、系譜は不明だが、その他に記載のある名前とその死亡年月日をあげると次のとおりである。 久兵衛(安永二年(一七七三)九月一〇日)。 乙女(安永六年(一七七七)十月一九日)。 久兵衛妻(天明五年(一七八五)五月二六日、惣兵衛実母)。 宗兵衛(寛政二年(一七九〇)六月一二日、惣吉養父)。 宗兵衛妻(文化九年(一八一一)一〇月二四日)。 墓地がたびたび移動しているのですべての墓があるとはいえないし、過去帳にも錯乱(さくらん)があり、後世に訂正・削除があるので、正確を期すことは難しいが、次の事項はおおよそ正しいと思われる。 ①忠六・於ゆ里¨宗吉の関係はこのままであるが、忠六についてはここに墓はなく、宗旨も違い、他の寺にあると記している(その寺は記録漏れした)。 ②宗吉・武助・久兵衛の関係は記録のままである。したがって武助・久兵衛の長兄に惣五を想定せざるをえない。 ③於奈美・お園・おまつ(松)は惣五の娘という記録がある。 ④奈をには享年七八の記載があり、惣五郎妻と明記してある。奈をと於奈美・お園・おまつの関係を示す記録は不明である。 総合的に判断すると、次のようなことがいえるのではなかろうか。 年代順に二番に古い②の夫婦墓が銘文不明であるが、過去帳に寛政十一年宗兵衛があり、その註に惣吉養父がある。また、過去帳によれば、③の惣吉の没年が文政十三年(一八三〇)五月十八日とあり、享和三年(一八〇三)は妻の没年でないか?宗を「そう」と読めば、宗吉の寡夫の暮らしも長いので晩年、「宗」を「惣」に改名したと考えると、①②③の三基の墓には、於ゆ里・宗吉(惣吉)・宗兵衛の三人にまつわる人間模様が窺える。 すなわち①の女性が「さしや」という屋号を名乗るにふさわしい条件をつくり、⑦のおそのにいたって名実ともに「さしや おその」として独立的地位を確立し、「指屋初代」として地蔵供養塔を建て、より懇(ねんご)ろに供養されるようになったものであろう。 この供養塔建立の中心人物「おなを」は、過去帳では惣五郎妻として、没年安政七年(一八七〇)三月一日、七八歳となっており、天明二年(一七八二)生まれということになる。おそのの没年には四十歳になっており、後継者として供養塔を建立したのだろう。夫惣五郎が文政九年(過去帳は文政十二年に死去したとき⑩の墓をつくった経緯は分からないが、その後、三十年間、幕末の混乱のなかで「さしや」を維持していったものと思われる。一子松二郎に先立たれ、せめてもの願いで「さしや」の名を残したのだろう。これより後の大きな墓はすべて三谷姓である。④の通り、おなみ・おその・おまつの姉妹とおなをの続柄は不明である。 こうした女性の独立的地位が確立された要因は何だったのだろうか。その謎を解く鍵が「指屋=さしや」にあるのではないだろうか。「さし」という語について、「日本民俗大事典」には、 サシは刺繍することを言う。古くは労働着を丈夫にしたり、作業を妨げる魔力を追い払うための刺繍をした とあり、独自の仕事場と技術を必要とする職業である。特定の職人なだわ作業着としての刺子頭巾・刺子半纏(はんてん)あるいは武道着・陣羽織・神祇装東等々、刺繍の需要はかなりあったのだろう。 もともと三谷家は紺屋(こうや)を経営していたようであるが、紺屋経営の一面で、こうした布地と女性の技を主体とした「さし屋」も経営していたのだろう。単に刺繍のみではなく、高級呉服の仕立てなどの分野まで手掛けていく専門職として、女性主体の「女の館」があったのではなかろうか。町人文化発展の頂点にあたる文化。文政時代、在郷町横尾の発展の一面を示すものであろう。備後地方(広島県福山市)を中心にした地域の歴史を研究しする歴史愛好の集いです