2014年02月01日

「蛇円山物語」によせて(消滅した野呂往還・開墾地)

備陽史探訪:176号」より

小田 慶久

蛇円山

今回175号で「蛇円山物語」を執筆されていたのを拝見し、私の50数年あまり前の思い出と重なりましたので、お手紙させていただきました。

私は確か、24歳の時、服部小学校に転勤しました。当時は12学級の平均的な学校。小学校の裏には服部中学校がありました。小学校は、服部新山と坂瀬川に分校を持っていました。分校の子どもたちは、3年生まで分校生活をし、4年生から本校に合流していました。

当時、月給が8千円程度の時、中古のオートバイを無理して買って、この山の中に家庭訪問していたのを思い出しています。

家に着くと家族が、「先生、ようきてくださった!」と挨拶され、コップに一杯水を出してくれる。水だと思って飲もうとすると「酒」だったので驚いて辞退すると言うことが度々あったのを思い出します。また、「何もないところですけー」と言われながら取り立ての「蕨」や「タケノコ」をどうしても・‥と土産に下さっていたものでした。

私の生家の庭の池に「セキチク」が生えていますが、教え子の家でいただいたものが今も生きているものです。

今回の記事に触れていらっしゃらないのですが、白峠からまだ奥に、「開墾地」と呼ばれた土地がありました。「神子原」とも呼ばれていたと思います。(※編集註・「原開墾地」と呼ばれていたと思われます)私が勤めた当時、まだ2~3軒の家庭がありました。国有林内に、それこそ現在の福島の非難住宅のような規格化された家がありました。ここにも教え子がいましたので2~3年、家庭訪問した筈です。どのような理由で開墾され、どんな方々が、どこから入居してこられていたのか分かりません。農地があった様には覚えていませんから、多分、林業その他で生活されていたのでしょうか?この開墾地の人たちは数年で皆さん、どこかに移転されたようでした。私がここの小学校に転勤した頃にはほとんどの家庭が引っ越し、残りの家庭が少なくなっていた時でした。

分校も次第に子どもたちが少なくなり、私は、服部小学校に6年間勤務しましたが、坂瀬川分校も、新山分校も最後には廃校になりました。

記事にある通り、野々倉の谷には沢山マツタケが取れるので、当時は本当に沢山マツタケを食べさせて頂いていました。蛇円山を表から野々倉に入れません。本郷の裏から山に入って行きます。田んぼ一面に「つくし」が生えているのどかな谷間でした。

野呂往還は鉱山道とも呼ばれていました。私も一度辿ったと記憶していますが、今は全然道の様子を思い出せません。新山の「大坊」と呼ばれている寺、あそこの裏道から奥に入って行ったと思っています。

(投稿記事より一部改変)

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