2011年12月01日

「永禄諸役人付」に見える三吉安房守隆亮について

備陽史探訪:163号」より

田口 義之

『群書類従』巻五百十一に「永禄六年諸役人付」(略して永禄諸役人付と呼ぶ)という古記録がある。室町幕府一三代将軍足利義輝時代の幕府の職員、幕府と関係のあった戦国大名の名簿と云われ、戦国時代、信長が登場する直前の全国の様子を調べるには格好の史料である。

中でも興味深いのは、巻末の「大名在国衆(国人と号す)」だ。ここには当時の幕府が「公認」した戦国大名がずらりと並び、永禄六年(一五六三)という、戦国がまさに酣になろうとする時点での全国の様子が一瞥でき、興味が尽きない。

試みに、冒頭の部分の一部を紹介してみると、御相伴衆という最高のランクに、朝倉左衛門督義景・大友左衛門督入道宗麟・北条相模守氏康・上杉弾正少弼輝虎・武田大膳太夫入道晴信と、錚々たる戦国大名が並び、織田尾張守信長、松平蔵人元康など、後の天下人も末尾に顔をのぞかせている。もちろん、我々に馴染み深い、毛利元就、同輝元、小早川隆景、吉川駿河守(名欠)の名もある。

私がこの記録の存在を知ったのは、高校生の頃であった。中央公論社から発刊された「日本の歴史」の一一巻「戦国大名」の中で、巻末の戦国大名一覧に出典の一つとして紹介されていた。

この一覧を眺めて、「おや、」と思うことがあった。肥後(熊本県)の戦国大名として「三吉安房守隆亮」の名があるではないか…。

当時既に備後の中世史に関心を持つようになっていた私は、その名が備後の国人で三吉盆地一帯に勢力を持っていた三吉氏歴代の中にあることを知っていた。しかも、同時代の人物として…。不審に思った私は、早速出版社に手紙を出し、ことの子細を尋ねてみた。

残念ながら未だ返事をもらっていないが、永禄所役人付に出てくる「三吉隆亮」が備後の三吉氏であることはほぼ間違いないと思っている(隆亮の名は備後の記録に頻出するのに対し、肥後の記録には全く見えない)。隆亮の肩書きにある「肥後」が「備後」の誤りと見ていいだろう。

そうすると、次に問題になるのは、隆亮が毛利三家と並んで「なぜ」この名簿に登場するのかという疑間である。当時、備後三吉氏は毛利氏に起請文を提出して、毛利氏に臣従していたのではなかったか、家臣が主君と並んで将軍から大名として認められるのはおかしいではないか、というわけだ。

だが、ここに注目すべき事実がある。毛利元就は正室吉川氏が亡くなった後、三人の後妻を迎えているが、その一人が三吉氏の出身であった(隆亮の姉妹と云われる)。毛利氏関係の書籍では、この三吉氏を側室とする場合が多いが、私は正妻であったと思っている。その理由は、三人の後妻の内、実家の家格が一番高いことだ。よく乃美隆興の娘を元就の正妻と紹介する通俗書を見かけるが、乃美氏は小早川氏の庶家であって家格は三吉氏より下である。『毛利家文書』中にも、元就が三吉氏に出す手紙の体裁を気遣っている様子が窺われる書状が残っている。さらに、幕府全盛の時代には三吉氏は、幕府奉公衆として室町御所に出仕する身分であった。

三吉氏が現実には毛利氏に従属する身でありながら、「永禄所役人付」に書き上げられ、幕府直参として扱われたのは、元就後妻の実家で、出自が将軍奉公衆であったためと判断出来る。