2007年06月15日

渡辺先祖覚書(草戸千軒から発掘された渡辺氏の居館)

備陽史探訪:136号」より

田口 義之

謎の居館

草戸千軒町遺跡の発掘が終了して十年近くなる。この遺跡の発掘で注目されたのは室町時代の半ば近くになって現れる中世武士の居館跡だ。この居館跡は遺跡の南側にあり、ほぼ「方一丁」という当時の平均的な武士の屋敷跡で幅十メートル前後の水堀で囲まれ、その内側には土塁という土手を築いて防備を固めていたはずだ。こうした屋敷のことを当時「上居」といった。

草戸千軒は「庶民の町」という印象が深いが、芦田川河口の交通の要所を占めたこの町を権力者が見逃すはずがない。さらに南北朝時代に一時廃絶した町は、計画的な規格によって再建されたこともわかっている。

渡辺高

室町時代の応永年間(十五世紀初頭)、この町に一人の若者が僧侶に連れられてやってきた。名前会長田口義之を渡辺高という。相続争いのもつれから叔父を殺し、故郷を捨てた。当時、草戸は京都の悲田院の領地で、高の親類の「かしよき」という僧侶が草戸の代官に任命され、追っ手の迫る高を連れて草戸千軒に下向してきた。草戸で「かしよき」は高を「ゆやの坊」という山伏に預け、「土居」に住まわせた。「かしよき」は数年京都と草戸を往復して庄務を取ったが、立派な青年武士となった高を悲田院に推薦して、やはり同寺の領地であった「長和寺家分」の代官とし、さらに当時の備後守護代大橋満泰に運動して高を守護の「被官(家臣)」にしてもらった。後に福山地方で有力な国人となる渡辺氏の由来である。

渡辺先祖覚書

以上のことは戦国時代の天文三年(一五三四)に、高の曾孫にあたる渡辺越中守兼が、「眠前の子孫のため」に書き残した「渡辺先祖覚書」に記してあることである。筆者の生まれる前の出来事とはいえ、渡辺氏にとって高の草戸土着は同家の発展にとって大変に重要な出来事である。まず、事実として見ていい。今まで「顔」が中々見えなかった草戸千軒の歴史も、発掘された居館が渡辺氏の「土居」であるならば、覚書を通して生き生きとしたものとなる。

草戸に土着した渡辺氏は、初代高、二代兼、三代家と備後守護山名氏の忠実な家臣として着々と勢力を拡大した。高は上下村(府中市上下町上下)の守護代官となり、三代家は「走り回り」守護山名是豊から市村(福山市蔵王町)、宇山(同春日町)を与えられた。

渡辺氏の没落

だが、順風満帆に見えた渡辺氏も三代家の時、危機を迎えた。応仁の乱で主君として仕えた山名是豊が東軍に味方し、西軍方によって備後から追放されてしまったのだ。文明七年(一四七五)夏のことであった。渡辺家も備後を捨て各地を放浪した。高の流寓先として、笠岡(岡山県)・宇多津(香川県)・弓削島(愛媛県)などが覚書に記されている。二年間各地を転々とした家は親類の意見で備後守護代宮田教言に弟小三郎を入質に差し出し、「降参」した。そして、草戸に帰ることを許された高は、自分の住いを「連々堀をほり、並塁印し付け、土居かたち」とした。この「土居」が発掘で発見された居館跡であることは、年代から見て、まず間違いない。渡辺氏がこの土居を本拠としてさらに飛躍するのは、家の子兼の代である。

渡辺越中守兼肖像(熊野町常国寺蔵)