2004年02月16日

菅茶山の「筆すさび」と「平栗」について

備陽史探訪:116号」より

出内 博都

茶山といえば儒学者であり漢詩人であることが代名詞になっていて、難しく近寄りがたい人のようなイメージがあります。しかし、この度発刊する「現代文・筆のすさび」を読んで頂ければ、別の面の茶山を発見される事でしょう。

これはこの度、神辺在住の友人からいただいたこの本のあとがきの冒頭の言葉です。

四巻・一六二編の項目は、茶山が晩年、廉塾への多くの来訪者から聞いた異事奇聞、関心を持った事柄、胸中の思いなどを、折々の筆に任せて書き綴ったものといわれている。

一六二項目の表題を見ると、この世の出来事は、天文暦学から花鳥風月…果ては日常茶飯事の異業奇聞、地域的には国内はもとより、中国に及び、人物面からは孔孟老荘を始めわが国の偉人英傑のエピソード、庶民生活の一断面などその多様性に驚かされる。儒学者であり漢詩人としてさらに一藩の文教を司り、郷学を開き地域をリードした学者茶山の根源の深さ広大さを思わされた。結論的にいえば、茶山がいかに情報を大切にしたかということであろう。

こうした茶山の情報の中に次の一項目がある。

備後の安田といふ所に、栗の垂れたる阿り。遠く見れバ垂絲櫻(しだれざくら)の如し、高さハ一丈許にて、えだはり二畝許も阿り栗毬(くりいが)多く津きて見事那里じとて外姪浅右衛門、此頃図して帰り示す

※外姪(とつおい)…男子が自分の姉妹が生んだ子供に言う言葉

ここに出てくる珍しい栗の本については、現在の神石郡油木町安田の南部地域の国道一八二号線沿線に「平栗(ひらぐり)」という屋号を持つ家と、その地名を持つ地区とがある。これに関係する、低木で枝が枝垂桜のように四方に垂れ下がる珍しい栗の木が自生している。こうした珍奇な事象にはつきものの「弘法大師」が「美味しい栗をいただいた御礼にお返しをしよう」と、手にした杖を振り上げ「栗の枝この子らのために低く垂れ下がれ」と静かに杖を振ると不思議や栗の枝はスーと垂れ下がり横へ広がっていきましたという奇瑞伝承が残っている。こうしてこの珍しい栗の本はこの山に自生するようになり、その山を持つ家の名を「平栗」というようになった。

特別な地名と植生や自然現象の結びつきは多く、この地名がいつできたかはわからないが、栗は貴重な食材で一種の財産として相続の「譲り状」などにもみられる、それだけにその後の森林政策の中で実の小さい在来種は淘汰された、小栗の木が数本ではあるが現在この地に残っているのは貴重な事であると思う。

この栗の木は「平栗家」関係の山にしか生えないという伝承を持っていると伝えられるが、現存する状態ではまさにその様になっている。『筆のすさび』の記事になった三百年前ころはどのように生えていたのかは分からないが、『数十年前は私の家の山にもあった』と語る老婦人もあるので、この地域に広く自生していたのかもしれない。現在確認できる数本は、平栗家のそばとその家に関連する『大師堂』そばと、少し離れるが分家の所有する山にあり、そこにも立派な『大師堂』がある。

平栗大師堂の内部に四体の大師像があるが、そのうちの一体は『弥三郎』という人を祀ったものという伝承がある。弥三郎は九州小倉生まれの人物で、白い馬に乗って備後小畠に来て宗則城主(?)に乞われて家老をつとめた。ある日、安田を旅しているとき、他人に見間違えられ平栗の下で惨殺され腰の刀を盗まれた、万寿元年(一〇二四)八月某日没・三八歳であった。弘法大師のお告げにより、弥三郎の墓を祀るため石像(座像・鯨尺一尺五寸=五六・七釧)を造り祀った。この由緒ある石像は、昭和四〇年春頃、心無い人に盗まれた、現在は新しい等寸大の像を造って祀っている。

この伝承は中世の『ミサキ信仰』に関連するもので、後世に弘法大師伝承と結びついて大師堂になったものであろう。平栗地名が中世開発に関係する事を物語っているだろう。いずれにしても在来の珍しい植物が消滅の運命にあることは嘆かわしいことである。

平栗大師堂にある(平栗の木)

平栗大師堂にある(平栗の木)