2003年10月11日

備前法華に安芸門徒の源流(日蓮宗の備後での布教)

備陽史探訪:114号」より

小林 定市

光照寺

一、備後鎌倉仏教の通説


二つの異なる熱烈な鎌倉新仏教を対照してか、「備前法華に安芸門徒」という言葉を聞かされてきた。それでは備前と安芸のはざまに当たる備後地方で、日蓮宗と浄土真宗とはどのような宗教史を展開していたのであろうか今以って明らかにされていない点が多い。

二つの鎌倉新仏教が備後に進出した時期に付いて、『福山市史』は曖味で、『広島県史』は「浄土真宗備後布教の起源、明光は多数の門弟を率いて沼隈半島に入来し、元応二年(一三二〇)に備後にきて光照寺を始めたとする説は真実に近いと思われる。」と記している。次ぎに「日蓮宗 西国布教と備後国、康永元年(一三四二)には備後国沼隈郡水呑村にあった真言宗重顕寺が日蓮宗に改宗している。」と記しているが三書ともに不充分な内容である。

二、山南郷の領主


浄土真宗に付いては、鎌倉時代の山南郷支配者を明らかにする史料が意外なところから発見された。それは厳島神社所蔵の『反古裏経の紙背文書』が新たな史料で、更に同文書を深く研究された藤井高一郎氏の論文『山南郷の支配者群について」により、領主が大仏氏であったことが特定された。『反古裏経の紙背文書』には、大仏氏の存在を肯定させる覺道の消息文があり、消息の仮名交じり文は難しいので理解しやすい漢字文に改め次ぎに記す。

「備後国山南請け所の事、本は比留刑部左衛門入道知行所にて候、孫比留左衛門太郎(維廣)迄に、知行と承り候」(後略)と詳しい主従関係の説明は後に譲るが、鎌倉幕府の最高実力者北條一族の大仏氏が領主で、家臣の比留刑部左衛門入道と比留左衛門太郎が大仏氏から、山南郷の代官として支配権を与えられていたことが判明した。

大仏氏と比留氏は鎌倉を本拠として活躍していたが大仏維貞(一二八六~一三二七)は元応二年(一三二〇)に六波羅南探題を下命されると、家臣の比留維廣と中間の弥三郎他を従えて上京した。その際比留維廣と中間の弥三郎(後の仏光寺開祖了源)が随従していたことが『存覺上人一期記』に記していたことから山南の領主が判明した。

大仏氏の関係した土地、本拠の鎌倉・勤務地の京都・所領の山南郷といった三ヶ所の地で存覺は道場坊を指導しており、指導を受けた主な僧は鎌倉弁ヶ谷最宝寺の明光、京都山科仏光寺の了源、山南郷光照寺の慶円・慶空・慶願・願空等であった。

鎌倉に京都と山南は何れも大仏氏と比留氏が関係した土地で、大仏氏が山南の領主であったことが幸いしてか、幕府瓦解期に明光派が山南に進出することができた最大の要因と考えられる。この大仏氏と比留氏に存覺の三者が関係した土地、鎌倉・京都・山南に念仏一流相承系図は残され、拠点寺院が建立され室町・戦国時代に大きく飛躍し今日に至っている。

三、比留維廣と了源に存覺


光照寺の開創期に明光の弟子達に教理を指導した存覺(一二九〇~一三七三)は、七十歳の頃子息の綱厳に一代の行状を口筆させた『存覺上人一期記』が伝えられ、同書を分析することで安芸門徒の草創期の動向が見えてくる。

同書の元応二年の条に「佛光寺空性(了源)初参り俗躰の弥三郎、六波羅の南方越後守(誤り陸奥守)維貞の家人、比留左衛門太郎維廣の中間なり、初参りの時申して云う、関東において此の御流の念仏を承る知識者(指導者)は、甘縄(鎌倉)了圓(明光)是阿佐布(東京麻生)門人なり、しかして門徒の名字を掛けると雖も、法門以下の御門流の事は更に存知せず、偶々在洛せしめるの間、参詣する所なり」と、大仏維貞が六波羅南探題に着任した際、鎌倉にいた家臣の比留維廣と中間の弥三郎了源を従えて上京している。

弥三郎了源は、鎌倉で明光(一二八六~一三五三)から親鸞の浄土真宗の教えを学んでいた。しかし、驚いたことに指導者の明光は、親鸞の仏法や教法・教派の事に関して適切な指導をすることが出来なかった。明光から教えてもらえ無いことに不満を募らせていた了源は、在京の好機を逃さず存覺を訪問して指導を求めたのであった。以後も関係を深めて度々存覺に教えを懇願したことから、同年存覺は念仏往生に付いての聖教数十帳を与えた。

了源はその後も存覺に教えを懇望し続けると、存覺は四年後に『諸神本懐集』『浄土真要妙』嘉暦三年(一三二八)に『破邪顕正抄』を与えた。猛烈な努力家の了源は元亨四年(一三二四)八月、念願にしていた寺院を山科に建立した寺が仏光寺である。存覺と了源の良好な師弟関係が大仏維貞と比留維廣に好影響を与えたらしく、存覺は大仏氏と了源の師明光から鎌倉に下向することを強く懇願されたようである。

四、存覺の鎌倉下向


元弘元年(一三三一)正月存覺は関東に向けて出発、二月には鎌倉に到着し明光の父親甘縄願念誓海の宿所で過ごしている。翌年になると大仏維貞の従兄弟、大仏陸奥守直貞の娘の後見人であった長楽寺禅尼(花山院師藤の女)に、存覺は十五歳の長女光安を禅尼の養女としている。存覺は幕府最高実力者からも信頼され、鎌倉で門徒の増加が見込まれる好ましい境遇の推移が見られ、表面的には存覺の鎌倉布教は順調に進展しているように見えていた。

元弘三年五月新田義貞の大軍が突如鎌倉に迫ると、大仏直貞は極楽寺坂を守り激戦を展開していたが次第に防御線は突破され、同地で五月二十二日壮烈な討死を遂げた。大仏維貞の嫡男家時も同日東勝寺で討死しており、鎌倉は紅蓮の猛火に包まれ北条一族は集団自決して幕府は崩壊したことから鎌倉布教は頓挫した。

大仏維貞に続いて、誰が山南郷の領主となっていたかを明らかにする史料はなく、嫡男の陸奥守家時または大仏直貞が有力である。大仏直貞の系図には、「領七万七千余貫、高卅七万五千石」との記載があり、何らかの事情で大仏氏の山南郷を直貞が相続していた可能性が高い。

存覺は期待していた最良の庇護者大仏氏を失い、焦土と化した鎌倉での布教が困難に直面すると、鎌倉を見捨て半月経過した六月九日、長女の光安と次男の光徳丸を残して上洛の途についた。残された光安は翌年光徳丸も翌々年に続いて上洛した。大仏氏の没落で鎌倉での生活基盤を失った明光の弟子達も、廃墟と化した鎌倉から逃れ環境が鎌倉に似て海に近い山南郷に新天地を求めた。進出を容易にした大きな要因は、同地が大仏氏の所領で代官を勤めていた比留氏と明光の弟子達に山南郷の有力者は、旧知の間柄だったと考えられ旧縁を手掛かりに進出した。

五、存覺の光照寺支援


建武四年(一三三七)八月存覺は備後に下向しており、同年備後から京都にいた明光のために『題名鈔』を著作し与えている。明光は江戸時代になると美化された伝承が伝えられ、備後に布教したことになっていても実態は不明で明光の文化財は皆無の状況である。存覺の記録からは京都以西で活躍したとする史料は見当たらない。

光照寺に所蔵されている念仏一流相承系図は、嘉暦元年(一三二六)五月に書き始められている。書き始めた嘉暦元年が開創の年と推定も可能であるが、仏光寺の念仏一流相承系図が始まるのは、開創年から五年後の元徳元年十一月で系図は寺の開基とは無関係な年から書かれていた。仏光寺の史料から、念仏一流相承系図と寺の開創は関係が無かったことが判明した。光照寺の念仏一流相承系図は鎌倉で必要に迫られ作成された後、元弘の乱後に山南に運ばれた可能性が大である。

備後に進出した明光一派は、先行して現世利益を標榜とする法華宗と信者の争奪戦を展開して苦境に立っていた。暦応元年(一三三八)存覺は山南慶空に『決智砂』と『歩船抄』二巻、山南慶願に『選択註解鋤』、山南願空に『報恩記』『法華問答』二巻を道場坊に与えレベルアップを図っている。

存覺は開創期の仏光寺と光照寺に集中して明光の弟子に典籍を授与しており、多くの典籍を授与して道場坊の自立を存覺が支援したことを意味している。暦応元年二月明光一派は備後国府の守護前に於いて法華と対決することになり、明光では対論に勝てる確信が無かったらしく、存覺が名前を変えて討論の場に出て勝利を獲得した。

子供同士の喧嘩に、負けた方の子供が勝つため大人を加勢に頼んだようなもので、興福寺から東大寺更に比叡山に登り尊勝院と青蓮院で本格的な学問を積んでいる存覺に、相対した日蓮系の田舎僧侶では最初から勝負は決まっていた。

六、沼隈半島の鎌倉新仏教


瀬戸内海海上交通の影響が大きかったのであろうが、沼隈半島では他地域に比べ比較的に早い時期から鎌倉新仏教が見られる。有名な寺院に鞆の臨済宗安国寺、山南の浄土真宗光照寺、草戸の真言律宗常福寺(明王院)等の寺が有り、これら三ヶ寺の文化財は、専門家によって解明が進められ多くの新発見が報告され現在に至っている。残された日蓮宗に至っては今以って全く手が付けられていない状況である。

水呑町には鎌倉時代末からの日蓮宗寺院が二ヶ寺あるが、何故か世間からは正確な開創は知られておらず寺宝の曼荼羅本尊は広く公開されていない。曼荼羅本尊は県市の教育委員会や専門家も未見の曼荼羅本尊で、勿論国や県市から文化財としての指定を受けていない。そんな怪しげな資料は信用出来ないと思われるであろう。しかし、専門家や教育委員会の鑑定や文化財としての指定の有無とは関係なく、寺には県内日蓮宗最古の史料や曼荼羅本尊が現在二ヶ寺に秘蔵されている。

備前法華の始まりに就いて備後では多く論及されていないが、大覺妙責の三備布教とする説が通説となっている。元弘三年(一三三三)五月十三日京都妙顕寺は、後醍醐天皇の京都還幸を祈念して効験があったことから備中国穂太庄が妙顕寺に寄進された。そうした経緯で大覺は穂太庄の庄務の管理に派遣されたらしく、続いて周辺の三備地方の布教に巡ったのが布教の始まりのようである。しかし、水呑の日蓮宗重顕寺と妙顕寺は、開基を大覺とする関係史料は現在まで何一つ見当たらず、大覺の師日像に関連する鎌倉時代末の史料が三ヶ寺に残されている。

七、日像の京都進出


一般に日蓮宗は日蓮によって開創された宗派と目されているが、日蓮が没した当時日蓮宗は公認されておらず、日蓮の教えは天台宗の一分派と見做されていた。日蓮から帝都弘法の悲願を託された日像(一二六九~一三四三)は、永仁二年(一二九四)四月に入京すると、折伏教化を計り商工業者の帰依を得て教腺を拡張して行った。そのため比叡山をはじめとして諸宗の迫害や讒奏に遭い、京を三度流罪追放され三度許された事件を日像の三黜三赦という。

徳治二年(一三〇七)五月、日像は院宣により土佐に追放される途次、京都府乙訓郡鶏冠井真言寺の僧實賢(水呑重顕寺日行の兄弟子)と宗論を行い、日像に敗れた賞賢は改宗して寺を日蓮宗寺院とした。当時水呑重顕寺は真言宗寺院であったが、住僧の日行は檀家の同意を得て兄弟子賓賢に随従して寺を真言宗から日蓮宗に改めた。日像の伝記類はこの宗論を、三度目の延慶三年(一三一〇)三月の紀州追放の時としている。三度目の追放は元亨元年(一三二一)十月二十五日、後醍醐天皇から勅勘の院宣が出され日像は備後尾道へ配流の身となった。ところが十三日後の十一月八日に、早くも勅免「法華宗日像洛中経廻の事、御奏間の処、勅免有るの由、日野大納言殿、御奉行候ところなり」の院宣が出された。このような追放と赦免が短期間に繰り返し出された事は、他宗の怨訴の激しさと其の逆に日像を支持する勢力が朝廷内部にあったことを物語るようである。

日像の一番弟子大覺妙賞(一二九七~一三六四)は、近衛経忠(一三〇二~一三五二)の子と伝えられている。しかし、大覺は経忠より五歳年長であったことから通説は誤りであった。近衛系図には大覺の名前の記載が見当たらないが、大覺が近衛一族の出身であったことは後世の史料からも明らかで、近衛氏が日像最大の支援者であった事は確実視してよいようである。

勅勘と勅免が出された元亨元年当時近衛経忠は権大納言正三位で、父の家平は六年前まで「氏の長者・関白」の身であった。十三年後に法華宗号の勅許が下された建武元年四月、近衛経忠は「関白・右大臣・従一位・氏の長者」で朝廷に大きな影響力を行使できる立場にあった。

この時代近衛家と備後守護長井氏との間に主従関係が結ばれており、水呑は長井氏の庶家田総長井氏の所領長和庄東方に含まれており、法華が進出するには領主と好都合な条件の整った土地であった。

八、水呑妙顕寺の開創


日像が三度日の尾道追放の後、布教の勅許を得た後に建てられた寺が京都妙顕寺である。水呑の妙顕寺の開創に就いては、貞享四年(一六八七)に水呑妙顕寺二十二世日潤が記した、『妙顕寺由緒之事』(『水呑町史』所収)と、その直後に日潤が記した『西国妙顕寺由緒』が確かな史料と推定されてきた。しかし、平成十一年に初公開された寺宝の曼荼羅本尊によって、従来の伝承よりも三十三・四年も以前に開創されていることが判明した。

寺の開創の決め手となったのは曼荼羅本尊で、曼荼羅本尊の端書きは「備後国西国妙顕寺建立本願、三原一乗妙性授与之、元亨三年(一三二三)三月十八日 日像(花押)同四月八日 日像(花押)」と記されていた。曼茶羅本尊に妙顕寺の寺名と開基法華一乗妙姓の名が併せて記され、鎌倉時代末の元亨三年三月に寺が存在しており、妙顕寺が鎌倉時代末に開創されていたことは厳然とした事実で、中央の髭題目は日像筆の特徴である髭先が天に向かって伸びる力強い「波振り」題目が書かれ、三月十八日と四月八日の両日に日像が二ヶ所に花押を据えた珍しい本尊であった。

水呑妙顕寺は、開創に関する鎌倉時代の正確な史料を残していない。しかし、曼荼羅本尊が授与された経緯を推定すると、日像が尾道追放の際に日像は重顕寺近くの法華一乗の宅により、法華一乗を教化した後の元亨三年に曼茶羅を与えたものと考えるのが一番無難なようである。

京都大本山妙顕寺は、三度目の勅免後の元亨二年に建てられた事は確実で、末寺の水呑妙顕寺も、曼荼羅本尊に書かれている元亨三年には寺の存在を確認できることから、開基を前年の元亨二年頃と推定することも可能で、寺号を同じくする京都と備後の本末二ヶ寺は揃って同時期に建立された寺であった。

九、水呑重顕寺の転宗


実は重顕寺三十六世小林日閑は、私の家から出た僧であったことが機縁となって、先年重顕寺の曼荼羅本尊を特別に拝観する機会に恵まれた。本尊は長年本堂に祀られていたためか、線香と灯明の油煙で表面は黒く染まり文字の判読が困難な程汚れていた。中央の題日は水呑妙顕寺と同じ「波振り題目」が書かれ、端書きは「暦応五壬午年(康永元年・一三四三)四月八日」と記されていた。

日像は同年の十一月十三日に没するのであるが、北伝仏教の釈迦誕生日とされる四月八日に、生涯最後の釈迦牟尼佛の供養を行った当日染筆した本尊であることが判明した。

重顕寺には他に寺の開基を記した、『諸宗問答口作集』が伝えられている。同書には「相伝候、凡宗論ノ法ハ以入門可為本卜、入門卜者是口作也、就中當家ノ義者、不可引文見ヲ只彼難勢ヲ取以御義二一々可乞決ヲ也、又當家ヨリ他宗ヲ難セル時ハ、彼ノ宗ノ祖師傍法ヲ可責ム也」(中略)で始まり奥書は「洛西乙訓郡鶏冠井真言寺賞賢者本来為余師兄也、像(日像)師命彼僧而示法花之深義、余信伏随従而忽捨密宗帰一乗、因茲件之重宝奉感得者也。于時應長元(一三一一)大才辛亥仲陽良日(二月)戒善院日行(花押)」と、宗旨変更に伴う転宗の経緯を記している。

日像の京都洛西における仏教論争が、遠く離れた備後の真言宗寺院に影響を与えて転宗の動機となったもので、前記の争論史料が伝えられていることから、水呑の重顕寺は備前法華に先行して法華を受容した寺で、中国地方における最初の日蓮宗寺院であったことは確実である。

十、日蓮宗の研究課題


日像の活躍に就いては未解明となっている行動記録と共に、未だに知られていない日像が授与した曼荼羅本尊がある。大阪薬王寺には日像が元徳二年(一三三〇)九月十三日に備前長船景光に授与した本尊が見られ、他に元徳二年正月十三日に備中青郷吉次に授与した日像筆本尊(行方不詳)記録がある。また、正慶二年(一三三三)六月六日に、備前の人が上京した際に授与した大曼荼羅本尊が現在岡山蓮昌寺(備前三本寺の一寺)に所蔵されている。此の大曼荼羅の伝来は明らかにされていないが、大曼荼羅が授与された背景には、穂太庄が京都妙顕の寺領に寄進(元弘三年五月)された先月の慶事が強く関連していたと考えられる。

廣島の国前寺(由緒寺院)にも日像が暦応二年(一三三九)十二月と康永元年(一三四二)七月一日に、安芸府中の暁忍に授与した本尊が伝えられている筈である。当時景光や吉次に次いで暁忍との間に、大覺が介在していたかどうかを明らかにする史料は残されていない。

日像は京都の富裕な商工業者や長船の景光・水呑の法華一乗といった刀工や、地方の富裕階層を布教対象としていた事は確実で、備前法華が水呑千軒法華に先行して法華を受容していたとする史料は現在まで見当たらない。以上水呑の日蓮宗は、以外にも日像の三黜三赦を色濃く反映していた。

水呑妙顕寺所蔵-日像筆-元亨三年二月の受荼羅本尊

水呑妙顕寺所蔵-日像筆-元亨三年二月の受荼羅本尊