2007年08月10日

杉原景盛討滅と杉原氏「家中」(盛重の相続争いと毛利氏の狙い)

備陽史探訪:137号」より

木下 和司

平安時代以来、備後の名族として備南に繁茂した杉原氏嫡流は天正十二年八月、伯耆国平田(現西伯郡大山町平田)において杉原景盛が毛利氏により討たれたことによって、実質的にその歴史的な役割を終える。戦国時代が大きく統一へと動こうとした時期に起こった杉原氏嫡流の滅亡という事件の経過をたどってみると、戦国期の備南を実質支配したとされる杉原氏「家中」の脆さを垣間見せてくれるのである。この稿では毛利氏による杉原景盛討滅事件の経緯を辿りながら、戦国期に国衆と呼ばれた戦国領主の「家中」について考えてみたいと思う。

戦国期の杉原氏嫡流は、確実な史料分析からは盛重から始まるとするのが妥当だと思う。『陰徳記』『陰徳記太平記』などの軍記物は、山名理興の出自を山手杉原氏とするが、確実な史料による裏付けはとれない。個人的な推測では、山名理興の出自は備後守護の一族である伯耆山名氏と考えているが、現状ではその推論を実証することはできていない。盛重の初見史料は、弘治三年二月九日付けで神辺城麓の土豪である屋葺氏に給地を与えた宛行状(『福山志料』①)であり、弘治三年段階で盛重が神辺城主となっていたことが確認される。この段階で盛重が「家中」と呼ばれる組織を持っていたことは、同年二月十六日付で肥後守費景・加藤家久なる二人の奉行人により屋葺氏に給地坪付けが出されていることにより確認される(『福山志料』①)。余談ながら肥後守責景は、盛重の重臣・所原肥後守と推定される。さらに永禄六年頃、伯耆国尾高城主であった行松氏の病死に伴い、その後家との婚儀により盛重は、神辺城主と尾高城主を兼ねるようになる(「森脇覚書」)。尾高城は出雲尼子氏攻略の要衝であり、盛重には毛利氏の厚い信頼があったことが見て取れる。盛重が尾高城主を兼ねたことにより、盛重の「家中」は、神辺城と尾高城という二つの拠点を持つことになり、備後の武士達が西伯耆に移動して尾高城でも杉原氏の家政を担当するようになったと考えられる。その根拠は、天正四年八月、伯耆国瑞仙寺に宛てた寺領坪付けに横山四郎右衛門尉・馬屋原孫兵衛と見え(「瑞仙寺文書」②)、同五年十一月、同国雲光寺に宛てた寺領坪付けにも入江隠岐守や壇上監物のように明らかに備後の武士と確認される人物がいることにある(「雲光文書」②)。尾高城主であった行松氏は西伯耆守護代の家格を持っていた有力国衆であったが、その「家中」は杉原氏「家中」に吸収合併されたような形になっていたと思われる。ここに杉原景盛が毛利氏に討たれることとなった大きな要因が潜んでいたと推測される。それは備後武士である神辺「家中」と伯耆武士である尾高「家中」の対立である。地理的に大きく離れた二つの拠点での「家中」内の対立、それが杉原氏嫡流の滅亡をもたらしたと推測されるのである。

盛重が尾高城をその手中にしてから、伯耆及び出雲の武士をその配下に置こうとし努力していたことが読み取れる史料が存在する。例えば、伯耆国に於いては永禄十年三月、比江津神社(現西伯郡日吉村蚊屋島神社)の神主職を在地武士である田口氏に預け置き(「蚊屋島神社文書」②)、同年九月、坂中氏に会見郡内で給地を与えている(「中曽治雄家文書」②)。また、出雲国に於いては、元亀四年二月に出雲大社の権検校である西春俊に「兵庫介」の官途を与えているし(「社家所蔵古文書写」③)、盛重の死後の天正十一年には杉原氏奉行人の中に出雲大社の社家を出自とすると推定される吉田元政の名が見出されるようになる(「雲光文書」②)。このように毛利氏の征服地である伯耆。出雲の地で勢力を拡大すべく盛重は努力していたが、皮肉なことにその努力が盛重の死後に家督を廻る争いを引き起こし、杉原氏嫡流を断絶へと導くことになる。

盛重の死去は天正九年十二月と推定される。最終史料は天正九年十月十二日付けで大山寺西明院への寺領寄進状である(「大山寺文書」②)。同年六月頃から病に臥せつていたようで、六月廿一日付けで吉川元長に宛てた書状には「仰せのように私は体調を崩しておりますが、(中略)、いよいよ養生に努めますのでご心配なきように」という文言が認められ(「岩国徴古館所蔵文書」④)、この年の末に病死したものと考えられる。盛重の死後、家督は嫡男の元盛に継承されている。このとき家督相続を廻って弟・景盛との間で葛藤があったことを示す史料は残されていないが、景盛討伐時の杉原氏「家中」の動きを見ると、元盛を推す備後武士と景盛を推す伯耆武士の争いがあったのではと推測される。元盛の家督継承を示す初見史料は、天正十年六月、備後国安那郡法鐘寺に与えた山伏安堵状である(「法道寺文書」)。しかし、天正十一年四月には景盛が備後武士である三吉氏に対して「丹後守」の受領を与えており(「三吉文書」①)、家督が景盛に継承されていたと思われる。元盛から景盛ヘの家督継承が異常なものであったことは、景盛討伐時に、杉原氏配下にあった横山氏・粟根氏に関して小早川隆景が出した書状により明らかである(詳細は後述する)。

毛利氏が杉原景盛の討伐に動きだすのは、天正十二年の春頃からである。天正十二年三月十一日、毛利輝元は突然、熊谷就真に三月十五日までに神辺城に城番として入ることを命じる(「熊谷彦右衛門」⑤)。就真が急な命令なので十五日に神辺城に入ることは難しいとの返事をしているが、再度、輝元は十五日に必ず神辺城の城番として入るように厳命している(「熊谷彦右衛門」⑤)。どんな事情による命令か不明ながら、杉原景盛を廻って何か異常な事態が起こり、山陽道の要衝・神辺城の確保を考えた輝元が、城番として就真を入城させようとしたと考えられる。この時、景盛は伯耆の尾高城にいたものと考えられる。更に、四月五日には安芸国高田郡の武士である井原元尚にも神辺城の城番が命じられている(「井原藤兵衛」⑤)。井原氏に城番が命じられた段階で、既に吉原少輔七郎・秋山元信・熊谷就真が城番として入っており、輝元は神辺城を一門と譜代によって固めていた。景盛を廻る異常な事態が何であったかは、天正十二年十月五日付けで小早川隆景に宛てたと思われる書状に、「岡伯耆守の事、今度、杉原景盛の謀反の証拠を掴んだことは殊勝であり、景盛領内より相当の所領を与える」とあって(「京都大学文学部所蔵古文書集」⑥)、景盛の謀反が備後の国人・岡伯耆守によって毛利氏に注進されたことが分かる。また、同じ頃、輝元が異母兄弟である三宮就辰に宛てた書状には「豊臣秀吉が景盛に宛てた書状を手に入れた金尾というものは、岡伯耆守の親類にて」という文言があり(「萩藩譜録」⑥)、景盛は秀吉方に組しょうとしていたことが分かる。しかし、天正十二年、既に毛利氏は実質的に豊臣政権の支配下に入っており、更に毛利輝元の息女と豊臣秀吉の養子・羽柴秀勝(織田信長の四男)の間で婚姻が進められていた(「萩藩譜録」⑥)。なぜこのような時期に秀吉は景盛の調略を行おうとしたのだろうか。ここに杉原氏嫡流の減亡を解明する鍵がある。その前にもう少し、景盛討伐の経過を見てみよう。

天正十二年七月一日、三日に毛利輝元が神辺城番である井原元尚・熊谷就真に宛てた二通の書状によれば、伯耆で杉原少輔五郎が死去したという噂が流れて、神辺城の杉原「家中」が動揺している様子がかかれている(「井原藤兵衛」⑤)。通説では少輔五郎を盛重の三男・景保とするが、後の事情を考慮すると元盛の嫡男とする方が良いと思う。実際、この時点で少輔五郎は死去しておらず、後に景盛討滅に対して重要な役割を果たす。少輔五郎の死去が神辺城「家中」に動揺を与えた理由は、彼らが毛利氏に謀反の疑いを掛けられた景盛の代わりに、元盛の嫡男である少輔五郎を杉原氏家督に付けようと考えていたためと推測される。神辺城「家中」の代表者が盛重の重臣・所原肥後守であったことは、前述の書状の中で輝元が所原肥後守以下とよく相談して油断なく神辺城の警護にあたるように命じていることにより分かる。

輝元が伯耆に於いて景盛を討伐することを決めたのは、八月一日のことである。神辺城番に宛てた書状に「景盛の身上については使者に言い含めてあるのでよく聞くように」と書かれている(「井原藤兵衛」⑤)。輝元の決断が景盛の討伐にあることは八月三日、輝元が備後国世羅郡の国人・湯浅氏に宛てた書状に「杉原景盛は元盛の自害以降、無道の企てをしており、今度、討伐を命じたので、急ぎ伯州に出陣するように」と命じていることにより理解される(「湯浅権兵衛」⑤)。また、八月四日付けで小早川隆景が神辺城に派遣されている毛利氏奉行人、国司元武・児玉元兼・兼重元続に充てた二通の書状には興味深い内容が書かれている。それは、景盛の討伐が決定されたことに対して、その配下にあった備後国人、横山氏と粟根氏の所領に狼藉が及ばないように保護を要請したものである(「横山文書」①及び「諸家零簡集」⑦)。この書状の中に「横山備中守のこと、元盛が死去して以来、筋目を忘れずに毛利氏に忠節を尽くした武士である」と書かれている(粟根長門守に関するものも同文)。つまり、元盛が何らかの理由で死去(その死去には景盛が関係している)して以来、景盛は毛利氏から不信を持たれており、備後の国人達は、その段階で景盛を見限り毛利氏に忠誠を誓うと小早川隆景を通じて申し入れていたと考えられる。先に景盛の謀反を毛利氏に注進した岡伯耆守も神石郡の国人であり、盛重の存命当時から杉原氏と近しい関係にあったと考えられる。岡氏の家系に伝来した古文書には、盛重が天正八年当時の伯耆・因幡の情勢を詳細に岡伯耆守に説明した長文の書状が残されており、杉原氏と岡氏の近しい関係を示している(「岡家文書」⑧)。つまり、伯耆尾高城にいた景盛に対して、神辺城「家中」及び杉原氏旗下にいた備後国人達が反抗したことによって、景盛が毛利氏から追討をうけることになったと考えられる。遡れば、盛重の死後、元盛を家督に付けようとする備後の国人と景盛を家督に付けようとする伯耆の国人の間に葛藤があったのではないかと推測される。盛重後の杉原氏家督は、一旦、順当に備後の国人衆が推す嫡男。元盛に決まる。しかし、景盛と彼を推す伯耆国人衆が謀殺に近い形で元盛を討ち、杉原氏の家督は景盛が継承することになる。家督の継承者が誰になるかは、その配下にある国人・土豪たちにとってもその処遇を大きく変える事態であった。元盛の謀殺に対して反感を募らせていた備後国人・土豪衆は、景盛の豊臣氏への内通を利用して景盛を討果たし、自分達に近い元盛嫡男・少輔五郎に家督を継がせようとしたのではないかと思われる。

八月三日には、毛利輝元・吉川元春が伯耆に向けて出陣している(「湯浅権兵衛」⑤)。八月七日付けで小早川隆景が湯浅氏に宛てた書状から、既に出雲・石見の国衆達が先陣として伯耆天満山城を落とし、景盛は佐陀城に逃げ込んでいることが分かる(「湯浅権兵衛」⑤)。そして、景盛が討たれるのは天正十二年八月十六日である。西伯郡大山町の海岸沿いの平田という場所で元盛の子息に討たれている(天正十二年八月二十日付け「小早川隆景書状」⑨)。元盛の子息である少輔五郎としては親の仇を討ったことになり、毛利氏により杉原氏家督の相続を許されると考えていた節がある。その根拠は、天正十二年九月十八日付けで安那郡の法鐘寺に宛てた書状に、神辺城に入城できたあかつきには、確かに十貫文の所領を寄進すると書かれている(「法道寺文書」①)。

景盛討伐以前から輝元は杉原氏を神辺城に環補する気持ちはなかったようで、既に前述の小早川隆景書状には「元盛子息も無道を行ったのだから、生害させて然るべきである」と書かれている。毛利氏は、景盛の秀吉への内通が発覚した時点から、神辺城を直轄城にしようと考えていたと思われる。景盛が討たれた後、戦後処理としては、神辺城に輝元の異母兄弟・三宮就辰が派遣され、尾高城には毛利氏の重臣・平佐就之が派遣され、両城の直轄化が進められている。九月十二日に輝元が就辰に宛てた書状によれば、就辰から報告された神辺城領の少なさに驚いた輝元が、城抱えも困難であるといい、杉原氏には千四百貫以上は絶対に引き渡すなと命じている(「萩藩譜録」⑥)。また、九月十九日付けで輝元が平佐就之に宛てた書状では、杉原氏の神辺城への出入りを吉川元春から止めさせたこと、及び、伯耆の杉原氏の所領から千貫を直轄領とするように命じている(「毛利家旧蔵文書」③)。以上から神辺城主としての杉原氏はその役割を終えたと推測される。杉原氏は断絶を免れたが、所領を千四百貫に減知され、嫡流の元盛子息は神辺城へ入ることなく、生害を命じられたと推測される。その根拠は、天正十五年六月、吉川元長から経言(広家)への家督相続に際して、経言への忠誠を誓う起請文に署名した人物の一人に、杉原彌五郎廣亮の名があり、吉川氏の家臣として杉原氏は存続を許されたと思われる(「益田元祥外十四名連署起請文」⑨)。ここに現れる廣亮は杉原氏の庶子家と推測される。八月四日付けで小早川隆景は、横山氏と粟根氏の保護を毛利氏奉行人に依頼しているが、その他に神辺城番・井原元尚に宛てて杉原兵部丞なる人物の保護を依頼している(「井原藤兵衛」⑤)。杉原一族の中にも元盛の生害を契機として、隆景を通じて毛利氏への忠誠を誓ったものがいたことが分かる。このように毛利氏への忠誠を誓った杉原氏一族の一人が廣亮ではないかと思われる。

天正十二年十二月十六日、羽柴秀勝と毛利輝元息女との祝言が行われる。これにより毛利氏は豊臣氏に完全に従属することとなった。豊臣氏との婚姻関係を進めながら、なぜ毛利氏はその四ヶ月前に慌てて杉原景盛を討ち、杉原氏を神辺城と尾高城から追う必要があったのだろうか。その理由は、天正十二年に大詰めを迎えていた毛利氏と豊臣氏の国境線の確定にあると思う。豊臣氏と毛利氏の国境線は、山陽方面は備中・高梁川であり、山陰方面では西伯耆と東伯耆の境であった。備中高梁川以東が豊臣方となった場合、山陽道の要衝を抑える神辺城の役割は益々重要になり、西伯耆はやはり豊臣氏と毛利氏の接点となるため、尾高城の重要性も非常に大きなものとなる。毛利氏と豊臣氏の婚姻関係締結前に景盛が秀吉に下れば、備後と西伯耆の要衝が共に豊臣方となり、毛利氏は大きな打撃を受けることになる。ここに兄・元盛を生害に追い込み、毛利氏に対する忠誠心に疑問符が付く景盛が備後の要衝・神辺城と西伯耆の要衝・尾高城にいることは毛利氏にとって大きな不安要因であったと思う。この状況を早急に解消するため、毛利氏が取った行動が景盛を討ち、神辺城と尾高城を直轄化することであったと思う。天正十三年十一月、毛利輝元が粟屋元知に宛てた書状には「その城(出雲富田城)と神辺城は郡山城と同然である」と書かれており、毛利氏にとって神辺城は領国内の最重要拠点であった(「粟屋彌次郎」⑤)。天文二十三年、厳島合戦に勝利した時、弘治三年、防長征服戦が成功裏に終わった時、いずれも毛利氏としては神辺城の直轄城化を果たしたかったと思われるが、その時々の情勢が毛利氏にそれを許さなかった。織田信長・豊臣秀吉によって戦国時代が幕を閉じようとする直前になって、毛利氏は三十年以上に及ぶ宿願であった神辺城の直轄化を果たしたことになる。

【補注】
①『広島県史』古代中世資料編Ⅳ
②『新修米子市史』第七巻
③『大社町史』史料編
④長谷川博史「毛利氏の山陰地域支配と因伯の諸階層」『戦国大名毛利氏地域支配に関する研究』所収
⑤『萩藩閥閲録』
⑥『広島県史』古代中世資料編V
⑦「備後史談備後古文書輯五』
⑧『山口県史』史料編3
⑨『吉川家文書』