わが町 日本鋼管とともに(2)

備陽史探訪:17号」より

種本 実

福山港:日本鋼管福山製鉄所(現JFE西日本)

その1鋼管町・引野町②

20年余り前の鋼管町は魚貝類の豊富な遠浅の海であった。バス道路が海との境であり遠くは四国迄見通せた日もあったそうである。埋立て工事が始まると海一面に作業船が集まり、夜は船の灯がまぶしい程だったと地の人は話してくれた。

鋼管の進出により最初に影響を受けたのは漁業を営んでいる人々であった。漁業補償は市の負担であり、水呑・福山・引野・大津野といった漁業組合から鞆・尾道・笠岡の漁協ヘと対象は拡大した。例えば昭和37年には深安漁協に2億4900万円、水呑漁協に6300万円支払われている。高卒の初任給が1万円の時代である。漁業補償は昭和39年に37漁協組合に約8億8000万円で解決した。当時5年間で漁場を失った沿岸漁民は県内で約2000人とされている。引野町の深安漁協80人は昭和37年秋に解散した。その内の一人ノリ養殖業のAさんは数百万円の補償金を元に土地を買い、福山市農協の「引野町ハッサク」の奨励方針にのり、みかん畑を軌道にのせている。漁業補償の一部として転業就職の斡旋を保障されたものの、中高年者にとって転業への道は険しく、多くの漁民は兼業だった農業に従事せざるをえなかった。

現在鋼管の総合事務所がある附近には、昭和29年に設置された自衛隊福山駐屯地の主として結核患者を対象とした10万平方メートルの自衛隊病院があった。戦前は航空隊の基地であった所でもある。隣の広大水畜産学部の跡地7万平方メートルと共に鋼管に払下げとなり、病院は兵庫県の伊丹駐屯地に総工費3億5800万円で鋼管が建設することになった。この為、駐屯部隊が福山に設置された時隊の要請で施設を自己負担し売店を開いた業者は福山市へ保障を求めた。

鋼管の建設工事には多くの災害も伴った。昭和38年7月27日早朝には労働者49人が乗った6トンの小舟が沈没し死者10人の犠牲者を出した。まだ車や電話の少ない時代のことで、自衛隊のジープで負傷者を運んだり、ヘリコプターによる救助活動が行なわれたり、大変な騒ぎだったそうだ。工事現場には常時2000人の労働者が働いており、宿舎と現場を結ぶ連絡舟はかなり無理な運行をしていたようだ。

現場ではさまざまな職種があった。例えば北木島や宇治島(走島沖)から石を運び海底に沈める石舟。(宇治島は石材の採掘により全島民が立ちのいた)海底を掘り起こすプリストマン式しゅんせつ船等々。海底の土砂をくみ出すポンプ船のある船長さんは、「長年外国航路の船に乗っていたが家族と長い間別れるのが辛く、工事中は一定の場所に落ち着かれるポンプ船に乗った、埋立ての後どのような工場が建設されるのか知らないまま全国を回るので、後年訪れると目をみはる」と、話している。

現場の海底から昭和39年10月に5000年前の釣り針が原型のままみつかり、当時広大分校附属高校教論の村上正名先生が鑑定したところ、獣骨でつくった縄文中期のものであることが分かった。その他、旧陸軍の高射砲の薬キョウや弾丸等も海底の土砂から発見されている。

(以下次号に続く)

※引用資料
前号と同じ

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https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1984/01/JFE.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1984/01/JFE-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:17号」より 種本 実 その1鋼管町・引野町② 20年余り前の鋼管町は魚貝類の豊富な遠浅の海であった。バス道路が海との境であり遠くは四国迄見通せた日もあったそうである。埋立て工事が始まると海一面に作業船が集まり、夜は船の灯がまぶしい程だったと地の人は話してくれた。 鋼管の進出により最初に影響を受けたのは漁業を営んでいる人々であった。漁業補償は市の負担であり、水呑・福山・引野・大津野といった漁業組合から鞆・尾道・笠岡の漁協ヘと対象は拡大した。例えば昭和37年には深安漁協に2億4900万円、水呑漁協に6300万円支払われている。高卒の初任給が1万円の時代である。漁業補償は昭和39年に37漁協組合に約8億8000万円で解決した。当時5年間で漁場を失った沿岸漁民は県内で約2000人とされている。引野町の深安漁協80人は昭和37年秋に解散した。その内の一人ノリ養殖業のAさんは数百万円の補償金を元に土地を買い、福山市農協の「引野町ハッサク」の奨励方針にのり、みかん畑を軌道にのせている。漁業補償の一部として転業就職の斡旋を保障されたものの、中高年者にとって転業への道は険しく、多くの漁民は兼業だった農業に従事せざるをえなかった。 現在鋼管の総合事務所がある附近には、昭和29年に設置された自衛隊福山駐屯地の主として結核患者を対象とした10万平方メートルの自衛隊病院があった。戦前は航空隊の基地であった所でもある。隣の広大水畜産学部の跡地7万平方メートルと共に鋼管に払下げとなり、病院は兵庫県の伊丹駐屯地に総工費3億5800万円で鋼管が建設することになった。この為、駐屯部隊が福山に設置された時隊の要請で施設を自己負担し売店を開いた業者は福山市へ保障を求めた。 鋼管の建設工事には多くの災害も伴った。昭和38年7月27日早朝には労働者49人が乗った6トンの小舟が沈没し死者10人の犠牲者を出した。まだ車や電話の少ない時代のことで、自衛隊のジープで負傷者を運んだり、ヘリコプターによる救助活動が行なわれたり、大変な騒ぎだったそうだ。工事現場には常時2000人の労働者が働いており、宿舎と現場を結ぶ連絡舟はかなり無理な運行をしていたようだ。 現場ではさまざまな職種があった。例えば北木島や宇治島(走島沖)から石を運び海底に沈める石舟。(宇治島は石材の採掘により全島民が立ちのいた)海底を掘り起こすプリストマン式しゅんせつ船等々。海底の土砂をくみ出すポンプ船のある船長さんは、「長年外国航路の船に乗っていたが家族と長い間別れるのが辛く、工事中は一定の場所に落ち着かれるポンプ船に乗った、埋立ての後どのような工場が建設されるのか知らないまま全国を回るので、後年訪れると目をみはる」と、話している。 現場の海底から昭和39年10月に5000年前の釣り針が原型のままみつかり、当時広大分校附属高校教論の村上正名先生が鑑定したところ、獣骨でつくった縄文中期のものであることが分かった。その他、旧陸軍の高射砲の薬キョウや弾丸等も海底の土砂から発見されている。 (以下次号に続く) ※引用資料 前号と同じ <関連記事> わが町 日本鋼管とともに(1) わが町 日本鋼管とともに(3) わが町 日本鋼管とともに(4)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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