2008年01月01日

赤柴山城と藁江氏(福山市赤坂町)

赤柴山城

「藁江表一城」赤柴山城

国道2号線を津之郷から赤坂方面に行くと、南にくっきりと頂を平らにした山が見える、赤柴山城跡だ。

台形の山の上にお椀を載せたように見えることから「茶臼山」とも呼ぶ。

この山に登る登山道はない。農免道路を金江へ越える手前のため池の東から高圧線の管理道を登り、鉄塔からはしゃにむに稜線を目指す。尾根筋へ出れば山道があり、山頂の城跡に出る。

城は、山頂の本丸を回の字状に2段から3段の帯曲輪がめぐり、その東西には堀切も残っている。山頂からの眺めは絶景だ。
南は松永湾から田島・横島、遠くは因島、北は赤坂から山手にかけての平野が一望の下だ。ここに城が築かれたのも納得できる眺望である。

赤柴山城と藁江氏

伝承では、藁江九郎左衛門繁義が築き、応永5年(1398)に城を渡辺源左衛門春綱に渡し、藁江城に移ったと言う。
また、渡辺氏の在城は12年間で、応永17年(1410)に春綱・義綱兄弟は山田(現熊野町)へ帰り、藁江繁義・繁行父子が再び入城したと伝える(西備名区など)。

藁江氏は本姓宮沢氏で、現在も金江一帯の著名な名字だ。一説には備後宮氏の一族と言われる。藁江城は、赤柴山の北2キロに残る山城跡で、近年まで藁江氏の石塔と伝えるこごめ石製の宝筐印塔が残っていた。宮氏の一族が周辺に勢いを持っていたことは事実だ。

室町初期、この城の東北に広がる荘園「長和庄」には、宮入道道仙・次郎左衛門尉氏信父子が侵略を繰り返し、地頭の長井氏は度々幕府に宮氏の不法を訴え出た(田総文書)。

この結果、長井氏の地頭職は有名無実となり、氏信の弟氏兼の子孫の一流は山田(熊野町)に本拠を置いて勢いを振るった(この一族は戦国時代に芦田町に本拠を移し有地氏を称した)。一帯に宮沢・宮宗・宮里・宮重など「宮」の付く名字が残るのはこのためだ。

戦国時代、金江から山南にかけては九州探題の後裔備後渋川氏の所領となるが、これも宮氏の勢力を背景としたものだった。
蓬雲軒渋川義陸の妻は宮氏信の子孫宮上野介の娘で、義陸は宮氏の援助で勢力を得た。

だが、宮氏は天文21年の志川滝山合戦で毛利氏に敗れ、渋川氏の勢力も凋落して行った。天文末年、義陸の子義正は、「藁江表一城(赤柴山城のことと思われる)」を小早川隆景に預けているのは、このことをよく示している。そして、毛利氏の備後制圧と共に赤柴山城も役目を終え、廃城となった。
赤柴山城

(田口義之「新びんご今昔物語」大陽新聞連載より)