篠津原雲井城跡(庄原市高町)

篠津原雲井城跡

【所在地】広島県庄原市高町

【比高】約400メートル

【城跡までの道順】
JR芸備線の高駅で下車すると、駅の南に山頂を平らにした山が眼前に覆い被さるように迫ってくる。 戦国時代の備後北部の戦国大名として名を馳せた山内首藤氏が築いた篠津原雲井城跡である。 標高は約700メートル、麓からの比高も400メートルを測る。 城跡を目指すには駅の東南から山に入る。 但し、道標などはなく地元の人に案内を請うのが無難である。

 

山内首藤氏の拠点、雲井城

雲井城跡は庄原市の東部を占める「篠津原」丘陵の中央に隆起する山頂に築かれているため、 まず篠津原の丘陵に登る必要がある。 この篠津原も戦国期の武家屋敷の群在する地域として有名で、当時の「道」も残り、城と城下町の関係を探る場所として貴重である。 中世の武家屋敷群を過ぎるとようやく城跡のある「要害山」の山肌に取り付く、ここからは「胸を突くような」という形容がぴったりの急な坂道で、ここより約30分で山頂に到着する。 城は、山頂東端の主郭から西に階段状に曲輪が築造され、南北約20m、東西200mを測る。

篠津原雲井城石垣2

この城跡で特徴的なのは石垣の多用である。ほとんどの曲輪は石垣造りで「総石垣」と言っても良いぐらいである。 石垣は最高3mを測り、場所によっては2段に築かれている。織豊期の石垣ほど整ってはいないが、戦国期の石垣としては出色のもので、各石は平らな面を表にし、裏込めを有す。

城主の山内首藤氏の本拠は、この城の西方約七mに位置する庄原市本郷の甲山城跡で、 雲井城は同氏東方の拠点として築かれたものである。 室町時代後期、この地の東方旧怒可郡(現比婆郡東部)には備後最大の豪族宮氏の一族久代宮氏が勢力を得、 本拠を東城町久代の比田山城から西城町入江の大富山城に移し、更に庄原盆地を窺がう形勢を見せた。 ここに西城と庄原の中間に位置する篠津原が俄然山内首藤氏にとって重要な地域となり、雲井城が築かれることになったのである。

篠津原雲井城石垣1

山内首藤氏と久代宮氏の間柄は天文22年(1553)の暮頃には決定的な局面を迎え、 当時芸備地方の盟主としての地位を固めつつあった毛利氏もこの両氏の動向には注意を払い、 合戦が始れば毛利氏は久代宮氏に味方すべきであると隆元は父元就に意見している。 両氏の戦いはしばらくの間は神石郡北部や備後出雲の国境地帯で行われていたが、 永禄2年(1559)には舞台を当雲井城のある篠津原は移し、最後の決戦が行われる。 これが同年6月17日の「篠津原合戦」である。

同日早朝、久代宮氏の当主宮景盛は手兵250騎を率いて篠津原に進撃し、雲井城に攻めかかった。 宮氏の攻撃は鋭く、城方の重鎮上谷六左衛門は宮方の松本源次兵衛に討ち取られ、 落城は時間の問題となったが、急を聞いた山内方では甲山城から援軍を繰り出し、宮勢の背後を突いた。 ここに形勢は逆転し、宮勢は西城目指して潰走した。 山内勢は庄原と西城の堺の団司河原まで追撃したが、西城川が増水して足踏みしているところへ、 宮氏の家老奥宮豊後が兵400を率いて懸けつけ、川を挟んでの対陣となった。両者数日にらみ合ったが、 様子を見ていた毛利元就が調停に乗り出し、山内氏には篠津原の領有を保証し、 久代宮氏には備中井原荘(現岡山県井原市北部)を篠津原の替わりに与えることで話しをつけた。 こうして備北を震撼させた篠津原合戦は幕を閉じた。

しかし、篠津原に堅固な城塞を築いたことは山内氏に意外な後遺症を残した。 合戦後もこの城には山内氏より当主隆通の庶兄が城代として居住した(篠津原山内氏)が、 篠津原の山内氏は堅固雄大な雲井城に拠って本家乗っ取りの野心を起こし、 本家に討ち取られると言う騒動をおこしたという。 以後、篠津原一帯の城塞は廃墟となった。天正年間(一六世紀後半)のことである。

【篠津原雲井城跡】

 

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/03-11.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/03-11-150x150.jpg管理人中世史山城,解説【所在地】広島県庄原市高町 【比高】約400メートル 【城跡までの道順】 JR芸備線の高駅で下車すると、駅の南に山頂を平らにした山が眼前に覆い被さるように迫ってくる。 戦国時代の備後北部の戦国大名として名を馳せた山内首藤氏が築いた篠津原雲井城跡である。 標高は約700メートル、麓からの比高も400メートルを測る。 城跡を目指すには駅の東南から山に入る。 但し、道標などはなく地元の人に案内を請うのが無難である。   山内首藤氏の拠点、雲井城 雲井城跡は庄原市の東部を占める「篠津原」丘陵の中央に隆起する山頂に築かれているため、 まず篠津原の丘陵に登る必要がある。 この篠津原も戦国期の武家屋敷の群在する地域として有名で、当時の「道」も残り、城と城下町の関係を探る場所として貴重である。 中世の武家屋敷群を過ぎるとようやく城跡のある「要害山」の山肌に取り付く、ここからは「胸を突くような」という形容がぴったりの急な坂道で、ここより約30分で山頂に到着する。 城は、山頂東端の主郭から西に階段状に曲輪が築造され、南北約20m、東西200mを測る。 この城跡で特徴的なのは石垣の多用である。ほとんどの曲輪は石垣造りで「総石垣」と言っても良いぐらいである。 石垣は最高3mを測り、場所によっては2段に築かれている。織豊期の石垣ほど整ってはいないが、戦国期の石垣としては出色のもので、各石は平らな面を表にし、裏込めを有す。 城主の山内首藤氏の本拠は、この城の西方約七mに位置する庄原市本郷の甲山城跡で、 雲井城は同氏東方の拠点として築かれたものである。 室町時代後期、この地の東方旧怒可郡(現比婆郡東部)には備後最大の豪族宮氏の一族久代宮氏が勢力を得、 本拠を東城町久代の比田山城から西城町入江の大富山城に移し、更に庄原盆地を窺がう形勢を見せた。 ここに西城と庄原の中間に位置する篠津原が俄然山内首藤氏にとって重要な地域となり、雲井城が築かれることになったのである。 山内首藤氏と久代宮氏の間柄は天文22年(1553)の暮頃には決定的な局面を迎え、 当時芸備地方の盟主としての地位を固めつつあった毛利氏もこの両氏の動向には注意を払い、 合戦が始れば毛利氏は久代宮氏に味方すべきであると隆元は父元就に意見している。 両氏の戦いはしばらくの間は神石郡北部や備後出雲の国境地帯で行われていたが、 永禄2年(1559)には舞台を当雲井城のある篠津原は移し、最後の決戦が行われる。 これが同年6月17日の「篠津原合戦」である。 同日早朝、久代宮氏の当主宮景盛は手兵250騎を率いて篠津原に進撃し、雲井城に攻めかかった。 宮氏の攻撃は鋭く、城方の重鎮上谷六左衛門は宮方の松本源次兵衛に討ち取られ、 落城は時間の問題となったが、急を聞いた山内方では甲山城から援軍を繰り出し、宮勢の背後を突いた。 ここに形勢は逆転し、宮勢は西城目指して潰走した。 山内勢は庄原と西城の堺の団司河原まで追撃したが、西城川が増水して足踏みしているところへ、 宮氏の家老奥宮豊後が兵400を率いて懸けつけ、川を挟んでの対陣となった。両者数日にらみ合ったが、 様子を見ていた毛利元就が調停に乗り出し、山内氏には篠津原の領有を保証し、 久代宮氏には備中井原荘(現岡山県井原市北部)を篠津原の替わりに与えることで話しをつけた。 こうして備北を震撼させた篠津原合戦は幕を閉じた。 しかし、篠津原に堅固な城塞を築いたことは山内氏に意外な後遺症を残した。 合戦後もこの城には山内氏より当主隆通の庶兄が城代として居住した(篠津原山内氏)が、 篠津原の山内氏は堅固雄大な雲井城に拠って本家乗っ取りの野心を起こし、 本家に討ち取られると言う騒動をおこしたという。 以後、篠津原一帯の城塞は廃墟となった。天正年間(一六世紀後半)のことである。 【篠津原雲井城跡】  備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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