2010年09月01日

草木遺跡(福山市郷分町草木)

福山の遺跡一〇〇選」より

平田 恵彦

芦田川の川底に沈んだ中世遺跡として全国的に有名なのは草戸千軒町遺跡だが、草木遺跡も知る人ぞ知る、そうした芦田川に沈んでしまった遺跡の一つである。

郷分町草木の周辺は、芦田川本流と支流の高屋川が合流する地点である。昭和初期の河川改修以前は地元の人々の耕作地となっており、民家もあったのだが、改修後は土砂が流れ込み、徐々に埋没していった。ところが、この川砂を昭和三〇(一九五五)年ころから採取されるようになり、その結果、川底が露呈し、そこから様々な遺物が採取されるようになった。昭和三七(一九六二)年ころのことである。

採取された遺物は、縄文時代から中世にかけてのものである。縄文時代の遺物としては、晩期の鉢形土器が採取されている。遺物は弥生時代のものが最も多い。頸部に突帯を有する壺や、ヘラ描き平行沈線をめぐらした壺が出土しており、前期後半に位置づけられている。中期の土器としては、口縁部を外に拡張し、その下部に櫛描平行線文や三角形の刺突文をめぐらす甕形土器や、タテハケを施した後に三角形の刺突文をめぐらしたものがある。壺形土器としては、口縁部に斜格子文を施し、頸部に三角形の突帯をめぐらし、さらにその下に波状文や平行文ほめぐらしたものがある。また、甑(こしき)も出土している。後期の土器には、壺形土器や高坏形土器がみられ、出土量が最も多い。他に、石包丁、紡錘車、土錘等も採取されている。

弥生時代以後の遺物としては、須恵器、土師器、亀山焼などが出土している。これらの遺物は、いずれも学術調査による発掘ではなく、基本的に表面採取であるため、出土状況については不明である。また、遺跡の現状は、前記のように川底であるため、学術調査は難しい。そのため遺跡の範囲や層位関係も確認されていない。ただ、縄文時代から中世にかけての複合遺跡であることは確かで、この地に古代から中世に至るまで継続して人が住んでいたことがわかる。とくに、縄文後期から弥生前期・中期・後期と継続する遺跡はそれほど多くなく、草木遺跡はこの地域の拠点的な集落であったと思われる。また、この遺跡は『備陽六郡志』等に伝えられる、いわゆる「穴の海伝承」が俗説であることの証しであるともいえる。

なお、草木遺跡の北西約三〇〇mに位置する郷分町大迫からは、弥生時代の細形銅剣(先端部)が出土しており、二つの遺跡は何らかのつながりがあると考えてよいだろう。

【草木遺跡】