2010年09月01日

御殿山(福山市津之郷町本谷)

福山の遺跡一〇〇選」より

小林 定市

御殿山

御殿山

津之郷小学校後方の御殿山(標高約四〇m余り)は、足利氏最後の一五代将軍足利義昭が、幕臣と共に山田(熊野町)から移り住んだ屋敷である。義昭の津之郷在住説を裏付ける史料は現在まで明らかにされていない。

義昭が備後を去って百十三年後に書かれた広島大学所蔵の、元禄一三(一七〇〇)年五月の『備後國沼隈郡津之郷村御検地水帳』には、書出しの地名の箇所に「御天(御殿)の畑地が三〇筆」その總合計面積を積算すると一町六畝六歩(約一〇六a)と記載されている。また、現在義昭を祀っている惣堂神社(別称・三島大明神、御神外・義昭)の社地は二ヵ所にあり、神社地の面積は「御てん(御殿)四畝五歩、畑四畝一五歩、山林四畝六歩」で、合計面積は一反三畝二六歩であった。以上津之郷幕府を裏付ける地名は江戸時代からあり、御殿畑地と明神社地の総面積は一町一反九畝二歩(約一三a)あったと記録されている。

御殿山の山頂平地(約二〇m×五五m)に隣接して惣堂神社があり、前方は辰巳向きの緩い傾斜地が麓まで続いている。東と画は急な傾斜地で後方は山となっていたようである。その高所の平地に足利幕府最後の御殿が造営され、公方(従三位 足利源義昭 征夷大将軍)主従は望郷の念を募らせながら生活していたことであろう。生活に関する伝承は伝えられていないが、義昭には多くの数の鷹が献上されていることから、幕臣とともに後方の高増山に行き鷹狩りを楽しんでいた可能性は高い。

天正二〇(一五九二)年、播州龍野城主の木下勝利は肥前名護屋に下向の途中、鹿島(現在の神島町)に立ち寄り、その際御殿山から蹴鞠装束を取寄せ遊んでいた。其の他義昭は和歌を詠んでいたことから、御殿では和歌や連歌の会が催されたり文学書が読まれるなどして、雅やかな京都文化が当地で開花していたことであろう。

義昭が鞆から津之郷に移った経緯は、羽柴秀吉の軍勢が備中に迫ったことと、毛利水軍の一翼を担っていた外様の村上水軍(来島・野嶋)が敵秀吉方に靡いたことから、安全と思っていた鞆が一朝にして秀吉方から攻撃される危険な土地になってしまった。此の情勢変化に素早く対応した義昭は鞆を見限り、鞆の北西約五km先にある渡辺出雲守房の一乗山城(福山市熊野町)に暫らく滞在した後、輝元の近臣神田元忠の所領津之郷を譲られ御殿山に最後の幕営を設けた。

秀吉は天正一三年八月四国を征服した後、九州平定と朝鮮渡海を視野に入れ毛利輝元に道路普請を命じた。そこで輝元は知恵を絞り関白と将軍の対面を実現させるため、備後国分寺から御殿山の麓を通り三原に抜ける新山陽道を建設した。天正一五(一五八七)年三月一二日、秀古は九州の薩摩に遠征の途次田邊寺の宿所に於いて義昭と対面した。その際両者は恩讐を超えて相手に敬意を払い、太刀を交換して講和を成立させたのであった。この田邊寺会談により、義昭対信長・秀吉の 一五年戦争にやっと幕が下ろされたのである。

秀占は五月三日島津義弘の降伏が確認されると、隆景と吉川元長に「義昭が大阪に行く」船の手配を命じており、奈良在住の多門院英俊は同年一二月一〇日頃「大阪に於いて公方ほか関白様に御礼を申された」と風聞を記している。

【御殿山】