2010年09月01日

神辺城跡(福山市神辺町大字川北・川南)

福山の遺跡一〇〇選」より

木下 和司

神辺城跡主要部「神辺城跡発掘調査報告」より、一部改変

神辺城跡主要部「神辺城跡発掘調査報告」より、一部改変

神辺城は戦国期の備後で最も重要な拠点と認識されていた城である。天正一三(一五八五)年、毛利輝元が月山富田城の城番をしていた粟屋元知に宛てた書状に、「その城(富田城)と神辺城は郡山城と同前である」と書かれており、毛利氏がその本城・郡山城と同様の城と認識していた。

戦国期の神辺城は、天文一三(一五四四)年頃から大内氏の指令を受けた芸備の国衆による攻撃を受けながら、同一八年九月まで落城を見なかった堅城である。この時の神辺城主は、備後の中世史上で最も戦国大名に近かった武将・山名理興である。神辺落城後は、大内氏の城番・青景越後守が神辺城に入る。毛利氏と大内氏の手切れ後には、毛利氏の後援を受けた杉原盛重が神辺城主となる。

天正一二年八月、神辺城主であった杉原景盛は、羽柴秀吉に通じたとして伯耆国平田で毛利氏により討ち取られる。杉原氏改易後、神辺城は毛利氏の直轄城を経て、天正一九年には毛利元康が城主となる。

慶長五(一六〇〇)年、関ヶ原戦役の敗戦により毛利氏は防長二州へ移封となり、替わって安芸・備後二国の大守となった福島正則の家老・福島重治が、備後の抑えとして神辺城に入城する。

元和五(一六一九)年、幕府に無断で広島城を改修したとして、福島正則は改易となる。福島氏の改易後、山陽道の抑えとして水野勝成が備後一〇万石の大名となり、福山城を築城する。福山築城により神辺城は廃城とされ、芸備の戦国時代を代表する武将達に彩られた備南の要衝・神辺城はその役割を終える。

JR神辺駅を出て正面に見える峻険な山が神辺城跡である。神辺城は、神辺平野の東南隅の黄葉山に位置しており、同平野からの農業収益を押え、且つ、山陽道による陸運と芦田川・高屋川の水運をも支配できる位置にある。

城跡は東端の尾根続きを大堀切で断ち切り、西側端部の斜面には畝状竪堀群を配置して、東西の防備を固めている。主郭は黄葉山の最高所に置かれ、北東の尾根に二段の郭を配し、西の尾根筋には四段の郭を配して、その先端に腰郭を廻している。その腰郭の斜面が畝状竪堀群となっている。山頂部の防備の概要は以上のようであるが、天文年間(一五三二~一五五五)頃から城麓にも防衛施設があったことが知られている。

天文年間の神辺合戦に際して多数の感状が残されており、その中に「神辺固屋回、城越えの鑓」、「神辺七日市表固屋口、構越えの鑓」という文言があり、「固屋」と呼ばれる城麓の防衛施設があったことが分かる。城麓の「固屋」がどのようなものか明確ではないが、空堀と土塁を廻らして板壁で仕切った出丸のようなものではなかったかと推定される。

また、現在の城跡中核部は、石垣を用いた福島氏による近世的な改修を受けたと考えられるため、切岸等自然地形を活用した中世的な城郭の持つ厳しさには少し欠けているように思われる。

【神辺城跡】