山城志:第14集」より

小林 定市

西神島町古城山と正面は西浜
西神島町古城山と正面は西浜

①沼隈郡鹿嶋村

福山市西神島町が、万葉集に歌われた神島であったと主張する、郷土史家が近年は増しているようであるが、果たして、古代から中世にかけて神島であった事を証明出来る史料が存在するので有ろうか。かしまの初見は天正二〇年(一五九二)、朝鮮の役に出兵の為に鎮西の名護屋に向かっていた木下勝俊は、(「九州のみちの記」・『鴬宿雑記』第二三四)の鞆の室の木「むろの本はとこよにあれとよめるはいつこをとたつねはへりけれは、むかしはこの浦に有つといひつたへたれと、今ハ跡かたも侍らねハさたかにしるひともさふらハす」の少し後に「かしまといふ所に立寄けり」と平仮名で記している。福嶋正則は関ヶ原合戦の軍功に依り芸備に入部した後、慶長六年(一六〇一)頃に慶長検地を実施した。その時の写し(『備陽六郡志』の『備後国福山領高辻村々帳』)に依ると、「鹿嶋村」と村名を付けている。寛文四年(一六六四)四月に幕府老中から水野民部(勝種)宛に出された(『結城水野家文書』二五、領地之目録)にも「鹿嶋村」と記されていて、江戸時代初期以前に於いて、神島と記した史料は管見の限り見当たらない。

②鹿嶋から神嶋に変更

元和五年2(一六一九)八月、水野勝成が備後南部の領主として入部し、福山城を築城中に城下町が将来発展することを考え、領内の町人達を城下町に移住させた時、鹿嶋村の西浜に住んでいた商人達(西神島町の伝承に依る)は、特に許されて福山城大手門前(現在の繊維ビル・日興證券KK 一帯)に集住させ、新町名を出身地の鹿嶋村に因んで鹿嶋町(『小場家文書』一三、水野勝重書状)と町名を付けて商売していた。

ところが寛永十六年頃(一六三九)の大火で、鹿嶋町一帯が消失してしまった後、鹿嶋町の商人は少し東南の地に移住させられる。従前の町名を用いる事が粉らはしかった為か、それとも災害を起こした町名が忌み嫌われてか、鹿嶋町から神嶋町(『小場家文書』一〇、水野勝重書状)にと町名は変えられた。分町には新町名神嶋が付けられたが、母村の鹿嶋村が何時ごろ分町と同じ神嶋村に改めたか確かな史料はまだ確認されていない。

③芦田川の本流

鹿嶋村の西浜で商いをしていた商人は、物資の輸送に芦田川の水運を利用して商業に従事いた様で、当時鹿嶋村西浜には船で物資を移送出来る程の、豊かな水量が流れていたと想定される。また、大手門前の鹿嶋町の場合も事情は同じで、商品を流通させるため鹿嶋町にも、自由に船の出入りが出来る豊富な水流が必要であった。中世芦田川の本流が、沼隈郡と深津郡の間をどの方角に流れていたのか、十分な解明はなされていないが上記の事由で、郷分村と山手村の東を南方に流れていた本流は、鹿嶋村の西側を通り佐波村山際(近大附属高校のあたり)に向かって流れ、佐波村の西北で瀬戸川と合流して九〇度方角を東に転じて、鹿嶋村と佐波村の間を流れ、草戸千軒の上流で国道二号線沿に東進し常興寺山の南山麓に達し、更に東に流れて福山港(入川)から瀬戸内海に流れていたものと推考する。

(推定・中世芦田川本流の水路)
(推定・中世芦田川本流の水路)

元和六年(一六二〇)五月の洪水で、福山城の南方でかなりの被害が出た事から、芦田川の本流が福山城に向かって流れない様に、常興寺山の南西部の本流を南部に沖出し、上流でも山手村(泉小学校の束の辺り)から堤防を鹿嶋村古城山の東側に通し、草戸千軒の東寄りに流れを改善した事で、従来L字形に流れていた本流は、抵抗の少ない弓形にと次第に形を変え、其の後の干拓で更に南方に流れを変えた事で、芦田川は次第に草戸村と水呑村の山寄りを流れる様に変化した。

元芦田川の旧本流河川跡と推定できる地形が、佐波村の北方(鹿嶋村の西方)に細長く突き出た形で村堺となっている。別記の図表(『府中市史』元禄十年・丑緒割符高帳、木之庄町・岡本家所蔵)は、芦田川流路変更に伴う関係村の増減石数を表わしたもので、郷分村と草戸村の村高は減少し、鹿嶋村は少し増加、本庄村は干拓地が多く残っていたのか二二二石も増加している。山手村と佐波村の慶長検地に依る村高は、九五四石で有ったが、元禄十年十一月には一七〇八石と七五四石も増加していた。

(追記)水野家時代の新涯開発高を、『福山市史』は、三万二千七百九拾三石(『福山市史』中巻・新涯の築成)を開発石高と見做し、また五万石から三万石等と種々に論じられて来たが、正確な開発高は公表されていない。元和五年八月、水野日向守が幕府より拝領した石高は、拾萬九石九斗九升で、水野氏が断絶する直前の元禄十年十一月 日の、福山藩領総石高は、『府中市史』含一、領地地方・丑諸割符高帳)に依ると、都合捨弐萬四千四百七石六斗で有る事から、福嶋・水野時代の総開発石高は、二万四千三百九拾七石七斗に達していた。

村高変遷図(元禄十年 丑諸割符高帳、本之庄町・岡本家所蔵)

村名 慶長六年(一六〇一) 元禄十年(一六九七) 石高増減
郷分村 四〇七 三四四 ▲六三
山手村 八七二 一三九二 五二〇
佐波村 八二 三一六 二三四
鹿嶋村 一九九 神嶋村二一〇 一一
草戸村 二五四 二四〇 ▲一四
本庄村 六九一 九一三 二二二

④戦国時代かしまの発展

文化二年(一八〇五)に『福山史料』の史料にするためか、領内の寺院由緒を書き出させている。福山城古文書館蔵の『寺院由緒書差出帳控』に収録されている、浄土宗安楽寺の由緒書に依ると

元和七辛酉年(一六二一)、水野勝成沼隈郡神嶋村ニ在リシ自空山法然寺ヲ、城下二移転セシメ正覚山安楽寺卜改称ス。当寺開基ハ弘治三年(一五五七)沼隈郡古神嶋村ニ於而、牧野嶋兵庫卜申ス仁建立、開山重巻上人。其後元和七辛酉年御城下工引越、開山本春上人

と書き出していた。

牧野嶋兵庫は、真木嶋玄番頭昭光の子息で、真木嶋昭光が十五代将軍足利義昭に従って鞆に来住するのは、天正四年(一五七六)の事で、開基の弘治三年説は誤りで、真木嶋氏が開基したとすれば天正四年以降となる。

天正六年(一五七八)十一月、毛利水軍は石山本願寺の戦いで、織田信長の部将九鬼嘉隆の装甲軍船七隻と、木津川口で戦い大敗してしまった。瀬戸内海の制海権が毛利水軍から織田水軍に移った事で、安全と思われていた鞆城(天文末年の頃、山田一乗山城主渡辺信濃守房が築城)も、何時織田水軍の奇襲攻撃を受けるかも知れない事態に立ち至った。

九鬼水軍に依る襲撃の可能性に怯えた足利義昭は、毛利氏に安芸への居所替えを懇請したが、安芸入りに難色を示され実現したのが津之郷の居館で、義昭は鞆から津之郷に居館替えを行った。その際真木嶋昭光は義昭への取次と居館を守るためか、津之郷前方の要害鹿嶋城山に住んでいた様で、義昭には遠国大名や有力国人衆らの使者の来訪も多かった事から、水運に恵まれた鹿嶋は次第に発展していった様で、天正十五年の終頃足利義昭と共に真木嶋昭光が上京した後も同地に住み着いた商人達に依ってかしまは繁栄を続いていた。

鹿島村から城下鹿島町に移住して行った商人達は、信仰していた商売の神である胡神と、新たに寺院を分町に建立する程の財力を持っていた。

⑤備後神嶋の存在

江戸時代の人が神嶋に就いて、どの様に理解していたかを知る史料として、神嶋の事を記した(「水野記」十四)には次の記載が見られる。

神嶋 紀伊同名有 秀元云、神嶋ハ備中小田郡笠岡之向、横嶋と白石嶋との間ニあり、今こうのしまといふ
続拾十 神しまの波のしらゆふかけまくも
        かしこき御代のためしとそミる
                 前中納言資実
右建久九年、(一一九八)大嘗会主基方御屏風備中国神嶋神祠所有

「水野記」は元禄十一年頃(一六九八)~享保十八年(一七三三)の間に(吉田彦兵衛秀元、一六五三~一七三三)に依って書かれた史料であるが、神嶋は備中と吉田彦兵衛秀元は書いていた。

江戸時代初期、水野氏は大型船を建造したが福山港の船入に入らなかったため、田尻村八幡神社下の御船入に大型船を係留していた。

万葉の時代に、備後神嶋に大型船が立ち寄って夜船出した歌を当地とする説があるが、福山湾口は現在と異なり、磯の周辺一帯には大岩が沢山あった模様で、港町の蛙岩を初めとして、岩礁や新涯村には鋤が入らない大岩盤等があって、福山湾では少し大型の船舶ともなると、昼の大潮を利用して澪(みお)筋を水先案内船に従い、慎重に航海する必要があった。上記の事由から当時、鹿島周辺での大型船の航行は到底考え難く、瀬戸内海の航路を大きく外れた備後の神嶋寄港説は疑間である。

⑥草戸千軒中州

中世の芦田川の本流は、草戸千軒の上手を斜めに横切る形で東流していた。洪水の際の莽流も同様に野上村の常興寺山に向かうが、莽流に含まれていた土砂が下流に少しずつ堆積して、次第に大きくなり中洲にと発達したのが草戸千軒である。江戸時代になると、福山城築城と城下町の拡張に加えて、上流で堤防を東に沖出しした事で、声田川の本流は草戸千軒の東端にと向きを変える。戦国時代迄は洪水の度に発達し表土を嵩上げしていた中洲が、江戸時代になると状況は逆転し、洪水の度毎に本流は草戸千軒一帯を襲う様になり、洪水は逆に中洲の表土や土砂を押し流し、江戸時代になると土中から中世の遺跡が出現するのである。

⑦草戸千軒の記録

草戸千軒と書けば宮原直倁の記した『備陽六郡志』の寛文十三年(一六七三)の草戸千軒大水害がよく喧伝されているが、実は宮原直倁より四九年早く生まれ、推定であるが約五〇年前に草戸千軒大水害を正確に記録していた人物がいた。その人物は吉田彦兵衛秀元で秀元は(『水野記』十三、草戸村明王院)

昔ハ草戸に千家なり、今に草戸セんけん(千軒)と云伝へり、其後又延宝二年(一六七四)の洪水にていよいよ民家もながれ地形も崩る也

と記している。

水野勝成が寛永十六年(一六三九)三月、領内各郡別に寺社領の旧記を提出させた(『水野記』十三、草戸村報恩寺、現在の真言宗法音寺)時の記録によると、当時の住僧弘伏は

土民曰(いわく)、古来草戸村在家者(は)千軒之(これ)有、大風雨之時大汐満寺院民家悉流(ことごと)

と書き出している事から、寛永十六年以前の水害で草戸千軒は流失し、草戸は千軒とも呼称されていたのである。

宮原直倁が草戸千軒を書いたのは、安永元年(一七七二)以後の事であるが、宝暦一〇年(一七六〇)難波鬼鏡は、(『備後太平記』、芦田郡刀鍛冶之事)に三原鍛冶正宗が

当国草戸へ来る。此節草戸に千間(千軒)町有しが彼の人法華一乗秀次が所へ宿す。

と書いている。史料の確実性に問題が残るが、法華一乗は室町時代の人物である事から、室町時代に草戸千軒の町が存在したと、宮原直倁より十余年以前に書き残していた。

③福山城築城と棟礼

福山城築城に関する詳しい、築城工事経過を示す史料は現在迄伝えられていないが、通説は『福山市史、中巻』の

ともかくも竣功(工事をし終える)をみたのは元和八年(一六二二)八月のことで、勝成はその十五日正式に入城した

と一般には三年の短期間で完工したことになっている。

しかし、福山城天守閣の上棟式が行われた当日、天守の棟木に打ち付けられた棟礼の写しが、(『備陽六郡志』外篇、福山城内)に写し伝えらえている。実は棟礼は下から棟木に打ち付けられていたため、銘文を読む際に棟礼の下に立って上の銘文を読んだので、裏文だけが読まれ表文が読み残されていたのである。残念な事に棟礼は、昭和二〇年夏の福山大空襲で天守閣と共に焼失したが、焼失していなければ城と共に国宝に指定されるべき文化財であった。

江戸時代の中期、何らかの事情で棟礼が外された時、表裏の銘文が書写され其の時の文書の写しが、水野家の菩提寺である寺町の賢忠寺に秘蔵されていたが、平成四年の秋に行われた、福山城築城三七〇年記念特別展に出品された。又その際の銘文は、福山城博物館から翁水野勝成とその時代」六一、備後州福山御城天守棟牌)として出版されている。銘文は別記のため省略するが、棟礼の終わりに

文化十一年(一八一四)歳次甲戌春三月初旬之書写 浪士村井正直之書 此一書他見者秘可者也(はひすべきものなり) 所蔵賢忠寺

此の文書の写しが存在した事で、元和八年八月二八日は上棟式が挙行された日である事が判明した、祭主は明王院圓光寺の宥将が行う。

福山城天守棟牌(表・梵字大日如来金剛界)
福山城天守棟牌(表・梵字大日如来金剛界)

棟上げの当日は少しの壁土も塗られて居らず、又屋根瓦は一枚も葺かれて居らなかった筈である。秀吉や家康の様に専門の技能者集団を抱え自由に駆使出来れば別であるが、年末まで僅か四ヶ月の間に天守閣を完成させる事は至難の業であろう。賢忠寺の写しは後世に編纂された史料と異なり、棟礼は第一級の史料なのである。

江戸幕府は、寛永十二年(一六三五)全国の困窮している小・大名に対し、総額五六萬両の貸出援助を行う。水野氏も同年八月四日幕府から築城御助力金として、小判壱萬弐千六百両 銀参百八拾貫(金に換算約六三〇〇両)合計約一萬八千九百両を、毎年十分の一宛(ずつ)・十ヶ年の完済計画で借用している。此の築城御助力金に誤りが無ければ、寛永十二年以後も築城は続いていたものと考えられ、築城が始まる元和五年以降から、寛永十二年迄の十六年間以上に渉り、工事が継続して行われていた可能性がある。

水野勝成は元和八年八月十五日に、正式に入城したと伝えているが、事実であれば、天守台に一本の柱も立って居ない城に入城を果たしたことになる。天守閣は別として、御殿等の住居用の殿舎が起居に差し支えない程度に完成した事と、本格的に始まる天守閣の大工事に備える為に、神邊城から福山城へ城移りの神事が行われたと理解すべきであろう。領主の事跡は称揚され都合が良い方に拡大解釈され易い、しかし、棟礼の存在を無視した元和八年八月を完成とする説は疑間で、棟礼は棟礼として正しく評価すべきであろう。

福山城天守閣に用いられていた柱等の巨木は、防虫性に優れ老朽化の進行が非常に遅い樹木である翌桧(あすなろ)が用いられていた。翌桧は築城材として最高の材料である事から、築城に当たり材料の吟味が充分行われている。現在中国地方では翌桧の産出が殆ど無い事から、東北産の翌桧が用いられたとする説がある。しかし、福山城より約二〇〇年も早く建築され比翼入母屋造で有名な、備中の吉備津神社の本殿・拝殿(国宝)の主材料は翌桧が使われている。吉備津神社は着工から三五年かかって應永三二年(一四二五)に竣工しているが、翌桧が大量に用いられている事から、中世には吉備高原辺りに自生していた可能性もあり、地元産の翌桧を伐り出して用いたとも考えられる。また、翌桧は木曽七木に数えられている事から、飛騨産も一応考慮に入れるべきでは無かろうか。

⑨伏見城の移築建造物

福山城の伏見櫓や筋鉄御門等の伏見城移築建造物の通説は、伏見櫓下の立て看板に

伏見櫓は、文禄年間(一五九二~九五)に豊臣秀吉が築いた京都伏見城の一部で、元和八年(一六二二)開祖水野勝成の福山築城にあたって、将軍秀忠から拝領移築したもので、梁に「松の丸東やぐら」の陰刻がある。

とある様に、「福山市史」も

伏見城はいうまでもなく太閤秀吉の居城として、桃山文化の粋を集めて造られたものである。

と秀吉が築いた事を強調している。資料の源は、大正六年(一九一七)に発刊された『福山の今昔』浜本鶴賓執筆の様で、同書には

時適々(たまたま)豊臣秀吉の遺蹟伏見城取拂のことあり、将軍秀忠より其の松ノ丸三階櫓、櫛形櫓月見櫓、鐵御門、多門、大手御門、御殿秀吉邸宅、風呂屋、廻塀百八十三間、橋三基、能舞台を賜はり。且つ普請銀若干を下附せらる

と幕府の助力を記している。しかし、伏見築城の真相に就いて、豊臣秀吉が築いた文禄年間の伏見城は、宇治川と木津州が合流する向島で、世に指月伏見城といわれていたが、文禄五年(一五九六)閏七月十三日の京幾大地震で壊減してしまった。そこで秀吉は場所を変え地盤の良い木幡山に新城を築いた。後世この両城を区別するためかたやを指月城、かたやを木幡山城(伏見城)と呼ぶに至る。

福山城伏見櫓下の案内板
福山城伏見櫓下の案内板

慶長二年(一五九七)五月木幡山城の天守閣が竣工すると、秀吉は同城に移り隠居後の居城とした。当時の情勢は外には朝鮮出兵の処理、内には関白秀次との軋轢が重なり、秀吉の体力と気力は次第に衰えていった。秀吉の没後最も懸念された脅威は、武力を温存している徳川家康と伊達政宗が合体する事で、翌慶長三年正月両氏の中間地の会津に上杉景勝(一二〇万石)を万一の場合を考慮して転封させた。しかし、景勝が領内整備に取り掛かった時、秀吉は子秀頼が天下取りに成る事を望みつつ、同年八月伏見城で没してしまった。翌慶長四年正月十日秀吉の遺命に依り秀頼は大阪城に移り、家康に次ぐ実力者で秀頼の傳(もり)役前田利家が同閏三月三日に没した事で、伏見城は同年閏三月より家康の居城となる。

これに先立ち家康は伊達政宗と婚姻関係を結んだり、勝手気侭に秀吉の遺命を無視するような行動を取り始めた。そこで四大老と五奉行は抗議を申し込んだのであるが、家康の行動を脅威として受け止めた景勝は、領国の城砦を修築して戦備を整え始めた、景勝の防備が原因で家康は会津遠征を企画、家康の会津討伐が引き金となり、関ヶ原の戦いにと発展するのである。

慶長五年(一六〇〇)六月十七日、家康は伏見城を出発する前日、城の配備に就いて、鳥居元忠・松平家忠・内藤家長・松平近正を選び守備兵約一八〇〇名と共に守らす、また特別に、松之丸には木下若狭守勝俊を守らせ変がある場合は援兵を出す事を命じ、翌十八日に会津を目指して出発した。

石田三成は、家康の東征軍が豊臣秀頼のそばを離れた機会を狙って挙兵し、七月十五日になると三成は使者を送り伏見城の明け渡しを要求する、すると鳥居以下の守備兵はますます防禦を固めた。

嶋津義弘は徳川家康が進発する以前に、家康から「伏見城の留守を頼む」と言われていたので、伏見城の守備軍に加わろうとしたが、鳥居等は「家康の下命の無い限り」と入城を断る。木下勝俊の実弟小早川秀秋も家康に好意を寄せ、伏見城に入城しようとして嶋津義弘同様に断られた。このため、義弘も秀秋も西軍に参加せざるを得なくなり、秀秋は西軍四万の総大将を命ぜられた。戦いを前にして勝利を得る戦いを否定する三河譜代の家臣団に、松之丸の木下勝俊は失望したのか、勝俊は家臣を連れて七月十九日以前に脱出してしまった。

西軍の包囲攻撃は七月十九日すら始まるが、伏見城は秀吉が最期に築いた名城だけに守兵は少なくても難攻不落の構えであった。痺(しび)れを切らせた三成は二九日寄せ手の陣地を督励して廻った事で、外郭を突破する事に成功した。篭城軍の配備は、本丸は鳥居元忠・内藤家長・佐野綱正、西丸は松平家忠・松平近正(後に松之丸を救援)、松之丸を守るは近江国の深尾清十郎元一と岩間兵庫等が木下勝俊に代わって守っていた。松之丸に近づいた小早川秀秋の軍勢の先手は夥しい火箭を放ち火攻めを敢行、その為防火に弱い城の欠陥が露呈し篭城軍は防火に散々悩まされ多くの部下を失う。

松之丸を守る深尾元一の配下の者(甲賀衆)が、敵方に内通して相図の火を城中に放つと、秀秋等の大軍が乱入し松之丸と名護屋丸は焼亡して陥落した。八月一日に火は猛炎となり余炎激しく逆風吹きめぐり、西丸の諸建造物や本丸の天守閣も大火となり、城兵は全員戦死し一日午後三時頃に伏見城は陥落した。寄せ手方も三千人程の死傷者を出して戦いは終わった。

伏見城布陣図
伏見城布陣図

関ヶ原合戦が徳川方の勝利となった結果、伏見城は大阪城の豊臣秀頼攻めの拠点として、徳川家康の手によって再建される。福山城に移建されている伏見城の遺構には、『備陽六郡志』「御殿 箱棟に葵の御紋付」『福山志科』「御風呂屋 葵の御紋有」と築城主の証拠である家紋が江戸時代記録されていた。葵紋は徳川家の家紋である事から、福山城の移建築物は関ヶ原合戦後徳川家康に依って再建された城であった。

以上の諸記録から、秀吉の伏見城は焼け残っては居らない筈であるが、もし残って居れば、秀吉好みの豪華絢爛とした建物か、木材には矢弾の跡が無数に残されている筈である。家康は伏見城を再建するに当たり、火災で城郭を失った苦い経験の教訓を生かし、日本城郭建築史上例を見ない防火対策を施した塗篭、漆喰(しっくい)仕上げの白亜の城を伏見に完成させると、徳川方の諸大名も続いて新技術を導入し、関ヶ原合戦以後白色の新城は日本全国に築かれて行くのである。

⑩慶長福嶋検地の野上村と正保干拓の野上村

吉津村の浄土真宗松熊山常興寺(『水野記』十三、福山城築城に伴い深津郡野上村から吉津村に移転した)と、福山城下の真言宗不老山阿釈迦院胎臧寺(『安那郡寺領社領』福嶋氏の芸備入部に伴い備北の西条から神邊に移った後福山城下に移る)が、吉津村に移転して合併するのは寛永十六年(一六三九)以後の出来事である。

其の常興寺は慶長六年(一六〇一)の、福嶋検地で誕生した野上村(常興寺山・福山城)の山に建立されていた筈である。ところが、水野氏が断絶した元禄十一年(一六九八)に於ける新野上村の位置は、福山城から約一四〇〇mも南方に立地していた。しかし、村高に変動が少なかった事が盲点と成ってか、新野上村が南に移動した事に対して疑念を抱く者は居らなかった。それは、慶長六年の野上村の村高が八〇〇石で、水野氏が断絶した後の元禄十三年の検地で、九〇〇石弱とほぼ釣り合っていた事が原因と考えられる。新野上村が南の干拓地に移った事由は、水野氏が正保年間に干拓した新田に由来し、場所は現在の霞町の南方『小場家文書』九三、水野勝俊書状) 一帯の土地で新田開発が進められている。その時に築かれた堤防は(『備後国福山城図』内閣文庫蔵)地吹町荒神社から住吉町東南端迄約一六〇〇mで、新野上村の南方の村境の地に築かれていた。

旧野上村の常興寺山に築城が行われ、山麓に城下町が形成される段階で、村は消滅して城下町に発展したのであるが、誤伝が生じた背景として考えられる事は、野上村が城下町に移行した事を示す資料が伝えられなかった事と、城下町を拡張する工事に続いて遠浅の干潟が埋め立てられ事で、旧野上村と埋め立て地の関係が不明となり、領主に依る干潟埋め立ての善政が誇大に強調され、一部の埋め立てが全て埋めたとする説に拡大され、城下は遠浅の海であったとする説が有力視され伝承されたのであろう。

鋼管町や箕沖町で遠浅の海を埋め立てた時、埋め立て地は地盤が安定しない為、直(す)ぐには建設が出来なかった事は説明の要の無い事実である。ところが、寺町の賢忠寺が建立された年は奇しくも福山城と同じ、元和八年であった。もし寺伝の通りに賢忠寺が建設されて居たとすれば、元和五年当時福山城から寺町一帯迄の土地は干潟ではなくて、家が建てられる程安定した地盤が広がっていた事になる。

正保の福山沖大規模干拓で、新涯地に新村名を付けるに際し、先年の城下町建設で消滅した野上村名が惜しまれ、新涯地に旧村名を復活させた様で、何れにしても、市内中心部と野上町(新野上村)の比高を比べると、現在の野上町の方が低い事から、千拓の開発実施時期は市内中心部よりは野上町の方が新しく、干潟に干拓された土地である事は間違いない。