2008年09月26日

大町山城と井上大炊介(広島県尾道市西藤町)

大町山城と井上大炊介

初めてこの城に登った時には、その余りに厳重な「尾首」に驚いた。山城の規模自体は極めて小規模だ。北から藤井川に突出した尾根を、背後を空掘で劃し、三十メートルほどの曲輪を設け、東に2段の曲輪を築いただけの、これで本格的な「山城」と呼んでよいか迷ったほどだ。ところが、背後の尾首には50メートルに渡って、両側に「畝状竪堀群」が構築されている。その数は十一条におよぶ。本丸は30メートルの規模だから、城はほとんど「竪堀」によって構成されている、と言っても過言ではない。

この異常な構造には二つの理由が考えられる。一つは、山の大きさが城の役割に対して大きすぎたため、本来曲輪を設ける場所に竪堀を築いたと考える。これは他の地域でもよく見られる現象で、城山の大きさに応じた城郭にすると、城の維持管理が出来ないためだ。

だが、よく考えるとこの理論は矛盾している。小さな城が欲しいのなら近所に適当な小山を探せばいいではないか…。

しかし、現実にこのような山の規模と城の規模がつりあわない「矛盾」した山城は各地に見られる。なぜか、それは「その場所」に城を築く必要があったからだ。

大町山城の位置は、眼下に藤井川を見下ろし、対岸の尾道市高須町を見通す絶好の位置を占めている。かつて「福田荘高須社」と呼ばれた高須町は、「大田」「関屋」「阿草」の三地区に別れ、一番北の阿草は北から東を藤井川で囲まれた台地状になっている。そして、戦国時代、阿草が松永本郷の古志氏の所領であったのに対して、南の大田には杉原氏の一族、高須杉原氏が本拠を構え、高須の3分の2を支配していた。

古志氏は、阿草に阿草城を築いて、一族の古志景勝を配し、高須杉原氏、更には同氏の本家木梨杉原氏と対抗した。ところが前に述べたように、阿草の北から東には藤井川が流れ、古志氏の本拠松永本郷と地形的に隔絶していた。

これが大町山に城が築かれた理由だ。東1キロにある兵庫城は標高が低く、高須を見通せないが、大町山なら阿草の台地を見通すだけの高さがある。

古志氏は阿草の城を何としてでも維持したかった。そのためには阿草の城と兵庫城、更には本拠の大場山と連絡できる城(こういう城を『繋ぎの城』という)が必要だ。それが大町山城であった。城の構造は、とにかく阿草城と連絡できる場所に兵を配置する必要がある。そうすると必然的に尾根の一番南端が本丸となる。

連絡用の城郭だから背後の尾根続き(尾首)が重要だ。そこで「尾首」を約半丁にわたって竪堀を連続して築き守りを固めた、大町山城の特殊な構造はこう考えればいいのだ。

城主と伝えられる井上大炊介は、古志氏の家老であった。『備陽六郡志』に彼の逸話が載っている。九州の島津義久が秀吉に降伏して上阪した時のことという。

今津に宿泊した義久に古志氏は大炊介を旅行見舞いに派遣した。義久は、「これは清左殿にはご使者に預かり忝い」と大炊介に挨拶したが、大炊介は「苦りきった顔」で答えない。義久が「宜しく頼む」と言ったら、大炊介はおもむろに顔を上げ、「某が主君は古志清左衛門と申し候、今一度ご返答を賜りたい」と申し述べた。この態度に義久はいたく感動し、「これは清左衛門殿には…」と改めて挨拶した。

さて、島津77万石と古志氏を対等に思うとは気骨ある侍と言っていいが、果たしてこの古風な観念が古志氏に幸いをもたらしたかのどうか…。

【大町山城】