2000年04月10日

草戸山周辺

備陽史探訪:94号」より

田口 義之

沼隈郡草戸山は、朝日にむかひて花の紐をとき、夕日をおひて、もみち葉ちしほのきぬをならへ、巌峨々として諸木枝をならへ…

江戸時代初期の俳人、野々口立圃(りゅうほ)の『草戸記』(『西備名区』所収)の一節である。

福山市街地の西に位置する草戸町、なかでも芦田川を渡った草戸山一帯は、今日でもかつての面影をよく残した地域である。山麓の明王院から東を眺めると、立圃の「麓をめくる川音は嶺の松にことをとふ」ほどではないにせよ、現在でも瀬戸川が山麓をめぐり、その向こうには備後の”母なる川”芦田川がゆったりとした流れを見せている。

草戸の歴史は、今も昔も、明王院を抜きにしては語れない。町名自体、明王院の前身常福寺の門前町”草戸千軒”に由来するものであるし、今日周辺が市街地に接しながらも豊かな自然を残しているのは”国宝の寺”明王院があったればこそである。

立圃の『草戸記』に「大同年中の艸創と言ひ伝へたり」とあるように、明王院の前身常福寺の歴史は平安時代初期にさかのぼる。その開基は弘法大師空海と伝え、寺伝を裏付けるかのように、昭和三七年の解体修理に際して、現在の本堂下に創建時の「堀っ立て柱建物跡」が発見されている。

市民に親しまれている本堂と五重塔(共に国宝)が建立されたのは、明王院がいまだ常福寺と呼ばれていた時代のことである。昭和三十四年から実施された解体修理の結果によると、本堂は鎌倉時代末期の元応三年(一三二一)に、五重塔はその二十七年後の貞和四年(一三四八)にそれぞれ建立されたことが判明した。常福寺が寺観を整えて行った鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、門前の芦田川の河原に”草戸千軒”が繁栄していた時代である。常福寺の隆盛とこの草戸千軒町の繁栄は密接なつながりをもっていたに違いない。室町時代末期、草戸千軒町が衰退に向かうと、常福寺も衰えていった。

この常福寺が現在見るように復興されたのは元和五年(一六一九)、水野氏が備後十万石の大名として入って来て以後のことである。同氏は伝統ある堂塔の荒廃を嘆き、その復興には援助を惜しまなかった。そして、堂舎の修理を進めると共に、その維持にも心を砕き、本庄の青木ヶ端にあった明王院と常福寺を合併することで、この由緒ある建物を後世に伝えようとした。現在の明王院の起こりである。

京都や奈良の有名寺院とは違い、普段の明王院は静かである。山門から境内に足を踏み入れると、正面に本堂、左手に五重塔が空に聳えている。柱の朱色が背後の山の緑に映えて美しい。右手には江戸時代初期の建立と伝える庫裏(くり)が落ち着いたたたずまいを見せている。

左奥に草戸山への登道が口を開けている。樹林に覆われた、昼なお暗い登山道を上って行くと一〇分くらいで頂上につく。正面の神社は愛宕さんで、寛永五年(一六二八)の創建と伝え、市の重要文化財に指定されている。ここから右手に道をとると親王院の旧跡が落ち葉に埋もれている。親王院は、空海の弟子で、羅越国(現在のベトナム?)で虎に食われたという高岳親王が一時滞在したところと伝わっている。

この道の突き当たりが南北朝時代、南朝方として活躍したという佐波越中守可美の佐波城の跡である。遺構は浄水場の建設によってほとんど失われているが、現在でも背後を堀切った空壕のあとがかすかに残り、ありし日をしのばせてくれる。

明王院の北隣が、正月の初詣でで賑わう草戸稲荷神社である。室町時代以来の古社で、元は芦田川の中洲(草戸千軒町遺跡)にあったが、江戸時代初期の洪水で、現在の場所に移建されたという。

正面に懸かった太鼓橋の上に立つと、かつて草戸千軒町が繁栄した河原が眼前に広がっている。発掘調査も終わり、削り取られて枠のみとなった中洲を見ると、人間の営みのはかなさ、空しさが実感として迫って来る。