1998年12月05日

銀行の話(福山市の金融の歴史)

備陽史探訪:86号」より

田口 義之

中国銀行福山船町支店の前に建つ福山銀行跡の石碑

中国銀行福山船町支店の前に建つ福山銀行跡の石碑

バブルの崩壊以来、金融の危機が叫ばれて久しい。商取引に「マネー」が使われる限り、銀行は無くならない。いや、この人間社会が続く限り、銀行は必要だろう。

我が国の金融略史

金品の貸借(たいしゃく)を金融と呼ぶならば、それは古代にも存在した。古代の税制は「租庸調(そようちょう)」として知られているが、実はそれ以外に農民は「出挙(すいこ)」と呼ばれる国家の強制的な米の貸付を受けなければならなかった。春、農民は国から割り当てられた籾(もみ)を借り、秋の取り入れ後にはそれを五倍から十倍にして返したのだ。返済できなければそれは負債となった。この出挙こそ古代国家の隠された重要な財源だった。

時代が下り、「銭の病」が流行したという鎌倉時代になると、金融は社会の重要な要素となる。鎌倉時代と言えば、武士が世の中の主役として登場した時代だが、幕府の記録を紐解くと、その後期には「御家人の窮乏(きゅうぼう)」が重要な政策課題になっている。原因は御家人が「借上(かしあげ)」と呼ばれる金融業者から銭を借り、返せなくなったあげく、彼らの所領がどんどん金融業者の手に渡っていったためだ。ここで出されたのが借金棒引きの法令として有名な「永仁の徳政令」である。しかし、この法律は数年後には廃止された。この法律によって借上は御家人に金融を渋り、御家人がかえって困窮したためだ。

次の室町時代になると金融業者は社会の中で益々重要な位置を占めるようになる。彼らは土蔵造りの立派な蔵を建てたことから「土倉(どそう)」と呼ばれ、米銭の貸し出しはおろか、元手を広く募って利子を付けて返済した。立派な銀行業務と言って良いだろう。土倉の経済力は大変なもので、幕府政所の年間経費六千貫文は京都の土倉が負担した。当時来日した朝鮮の通信使も、室町幕府の財政は富商(土倉)によって支えられていると帰国して国王に報告している。

江戸時代になると、これに両替業務が加わる。この時代は奇妙なことに日本の東西で流通した貨幣が異なっていた。東は「金」で西は「銀」であった。こうなると両者の交換比率が問題になる。両替商は刻々と変わる金銀の両替相場を見ながら利ざやを稼いでいった。さらに後期になると全国の各藩で「藩札(はんさつ)」の発行が盛んになる。藩札は発行された藩内だけで流通する紙幣で、各藩の御用商人が藩に代わって発行を引き受けた。わが福山藩が藩札発行の先進藩であったことは有名である。藩札の発行を引き受けた商人は、今日の為替業務とほとんど同じ業務をこなした。各藩の財政状態によって藩札の価値は変動した。下手に取り引きすると大損だ(実際藩札の価値は時代が降るとともに下落した)。

こうして見ると近代銀行が出現する以前、すでに日本人はその業務のほとんどを習熟していたわけで、これが明治になって「銀行制度」がスムーズに社会に受け入れられた理由である。

義倉と第六十六銀行福山支店

近代以前の銀行として、まず挙げなければならないのは「義倉」である。義倉は、御存じのように文化元年(一八〇四)深津郡千田村(現福山市千田町)の河相周兵衛、品治郡戸手村の信岡平六、湘油揚守の神野利右衛門等によって、窮民(きゅうみん)の救済・学問の普及を目的として設立された一種の「社倉(飢饉に備えて米穀を貯蔵した結社)」である。

義倉が江戸後期各地に設けられた社倉と違った点は、自らが「義倉田」という救米を確保するための田畑を保有し、その購入のための資金を得るため、金融業を営んでいたことである。義倉の融資する資金は「義倉銀」と呼ばれ、一般の高利貸しより低金利であったため、利用者も多く、福山地方の金融機関として大きな意味を持っていた。貸付金には義倉自身の資金の他、旧福山藩領一円から募った「預り金」が充てられ、預り金には利息が付くことから、義倉は福山地方の銀行としての役割を果たしていた。

しかし、義倉の「銀行」としての役割は明治二十六年(一八九三)に終了する。同年「銀行条例」が施行され銀行以外の銀行類似行為が禁止されたためだ。ちなみに、義倉は明治三十二年(一八九九)財団法人となり、今日も我が郷土で産業の振興・学問教育の普及に大きな役割を果たしているのはご承知の通りである。 

福山に出現した最初の本格的な銀行は第六十六国立銀行福山支店である。第六十六国立銀行は、渋沢栄一の「国立銀行条例」によって、明治十一年(一八七八)、尾道に創設された銀行で、当初の資本金は十八万円。同十六年(一八八三)十一月二十日、西町新馬場にその福山支店がオープンした。同行としては大坂・広島に次ぐ三番目の支店で初代の支配人は岡村詮次であった。

同支店の営業状況は極めて順調で、明治二十五年(一八九二)度の預金貸金の合計は預金十一万円余、貸金十三万円余となっており、尾道本店に次ぐ成績を上げている。同行はその後明治三十年(一八九七)一月、株式会社となり、大正九年(一九二〇)芸備銀行、昭和二十五年(一九五〇)広島銀行となり今日に至っている。

第六十六銀行の営業成績を見ていくと、明治三十年を境にして、同行広島支店が本店に次ぐ成績を収めるようになる。これは日清戦争によって軍都広島が活況を呈すことになったことにもよるが、福山に「福山銀行」を初めとする地元資本の銀行が続々と設立されたためである。福山銀行は、明治二十九年(一八九六)四月一日、船町の現中国銀行船町の場所に設立された銀行で、当初の資本金は三十万円。取締役会長として藤井与一右衛門、専務取締役として河相三郎・斜森(ななもり)保兵衛等当時の福山財界の錚々たる顔ぶれが名を連ねている(『福山市史』下巻)。

貯蓄銀行と穀蕃合資会社

銀行の話を続けよう。先に紹介した福山銀行に続いて福山にオープンした銀行は、福山貯蓄銀行である。同行は明治二十九年十月十五日、資本金五万円で開業、行名に「貯蓄」とあるように、主に零細な預金を資金として運営された。当初の頭取は河相三郎で、取締役として藤井与一右衛門・斜森保兵衛などが名を連ねている。

また、同時期松永で開業した穀蕃(こくばん)合資会社も立派な銀行であった。同社は松永の大地主石井四郎三郎家を中心とした石井一族が経営した金銭貸付。預金等を行った銀行類似会社で、その設立は明治十四年(一八八一)とも同二十年(一八八七)とも言うが、福山銀行や福山貯蓄銀行同様、明治二十九年一月、大蔵大臣より銀行事業営業認可を受けて合資会社となった。資本金は二万八千円余で、当初の社員は十二名であった。

こうした銀行は地元資本で運営されただけに景気の変動で浮沈を繰り返した。例えば、福山銀行の場合、当初順調であった経営も明治三十年代の不況で大きな打撃を受け、同三十六年(一九〇三)には「債権上大ナル損失ヲ生シ…其損失ヲ補充スルニハ資本ヲ減額」と言うことで資本金を三十万円から十八万円に減額している。これは株主にとっては大きな痛手で、ある株主は「誠に残念である。今後は注意して地方株は持つべきでない」と記録に残しているほどである(『福山市史』下巻)。

地方の資本家にとって銀行を持つことは潤沢(じゅんたく)な資金を得る有力な手段であったが、好不況の波をうまく乗り切れなければ、破産という最悪な事態を迎える場合もあった。松永の穀蕃合資会社の場合、明治三十九年(一九〇六)の決算では純益金一万八千円余と順調であった経営も、社員の中に他事業に手を出し失敗するものが現れると、たちまち経営は破綻(はたん)し、大正三年(一九一四)十月には営業を停止してしまった。石井家ではこの状態を打開すべく努力したが、いかんせんその貸付金の焦げ付き高は二十三万三千円余という膨大な金額に及び、同家の不動産二十八万七千円余を提供することでようやく後始末を付けている。このためさしも隆盛を誇った石井本家も破産状態となってしまった(同上)。

恐慌と銀行界の再編

日清・日露の戦争に勝ち抜き、帝国主義列強の仲間入りを果たした日本は、経済の上でも目覚ましい発展を遂げた。維新当初、輸出産業と言えば僅かに「絹」や「茶」しかなかった我が国は、新政府の富国強兵政策によって重化学工業も順調に成長し、二十世紀を迎える頃には、海軍の艦艇(かんてい)もほとんど国産できるようになった。

第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)はこの情勢に一層の拍車をかけた。英・仏・独の欧州列強は総力戦に突入し、海外に製品を輸出するどころか、自国の軍需品の生産にも事欠く始末。大戦に突入すると、それまで蓄えていた弾薬がわずか数日で底をついたというのだから、近代の総力戦の消耗(しょうもう)は凄まじいものがあった。日本はこの大戦でアメリカと共に連合国側に味方し、その後方補給を受け持った。前線で鎬(しのぎ)を削る英・仏に、日用雑貨から弾薬・軍艦まであらゆる工業製品を輸出したのだ。アメリカが「世界の工場」として確固たる地位を築いたのはこの大戦であったし、日本もまたこの大戦によって資本主義国としての地位を固めた。

しかし、第一次大戦が連合国側の勝利によって幕を閉じるとその反動もまた凄まじいものがあった。大戦が終わると英・仏は再びその植民地政策をすすめ、大戦中失った市場の回復を目論んだ。それに対して日本には拡大した生産設備から生産された工業製品を販売する市場がなかった。日本の国内需要は農村が地主制によって生活水準が押さえられていたため需要が少ない。勢い製品の販路を海外に求めるしかないが、多くの地域は欧米列強の支配下にあって日本製品を買ってくれるところは少なかった。つまり、資本主義国としての日本には欠陥があったのだ。この後日本は侵略戦争に突入し、太平洋戦争の終末まで人々は塗炭の苦しみを味わうことになるが、それは地主小作制という封建的な旧制度を改革することなく、資本主義列強への道をひたすら追い求めていった為だ。

それはともかくとして、大戦後の日本経済は「寡占(かせん)」によってこの不況を乗り切ろうとした。三井・三菱・住友・安田などの財閥が益々肥大していったのはこの時期だし、銀行が現在のように全国規模の都市銀行と、一県規模の地方銀行に再編されたのもこの時代である。そして、この銀行再編成は、大蔵省の強力な指導によった。

福山地方でも、大正十五(一九二六)年三月、県知事が福山地方の土着七行の代表者と県庁で懇談(こんだん)し、尾道銀行を除く六行が「合同」に賛成している。この「懇談」が大蔵省の指示を受けたものであることは言うまでもない。かくて、大正五年(一九一六)には三行(福山・福山貯蓄・桑田)あった福山に本店を有する銀行が、昭和九年(一九三四)には一行もないという状況に立ち至るのである(『福山市史』下巻)。