悲運の国衆新庄古志氏(出雲古志氏説を検証する)

備陽史探訪:84号」より

田口 義之

戦国時代、備後南部に勢力を持った国人領主に古志氏がいる。同氏は福山市本郷町の大場山城を本拠に、天正一九年(一五九一)まで、「新庄」と呼ばれた付近一帯を支配した。

この新庄古志氏(以下大場山城に居城した古志氏をこう呼ぶ)については、地元の労作『松永市本郷町誌』を初め『広島県史』『福山市史』等に、金江町の古志家に伝来した『古志家文書』に基づいて、その備後入部の経緯や系譜等が述べられている。

これらの文献によると、新庄古志氏は出雲国神門郡古志郷を名字の地とした「出雲古志氏」の一門であり、備後入部の経緯は、応永期(一五世紀初頭)に古志国信が備後守護山名氏の守護代として沼限郡新庄に入部したこと、以後歴代山名氏の被官として活躍したこと、また、最後の大場山城主と伝えられる古志豊長は、尼子の将として知られた古志重信の次男であったとされている。

しかし、従来主張されてきた新庄古志氏の系譜等に就いては問題点が多い。まず、最後の城主とされる豊長は、重信の活躍年代から推定して天正期(一六世紀後半)に活躍した人物と考えられるが、毛利氏麾下(きか)の古志氏がなぜ「豊」を名乗りの一字としたのか納得できない(当時、備後の国衆は、例外なく「元」あるいは「広」を毛利氏より与えられている)。さらに問題は、通説に新庄古志氏の根本史料とされている『古志家文書』は、ほとんど出雲古志氏の関係文書であって、備後での古志氏の活躍を示すとされる文書も、厳密に検討すると他の解釈も可能である(注①)。

これは一体何を意味するのであろうか。「新庄古志氏」は幻に過ぎないのであろうか。しかし、戦国期に「新庄古志氏」が存在したのは間違いない事実である。有名な弘治三年(一五五七)の毛利元就他備後国衆一七名連署の起請文案(毛利家文書二二五号)に「古志左衛門大夫豊網」の名があり、小早川・毛利家文書中の「毛利元就雄高山行向滞留日記」に備後国衆の一員として「古志左衛門大夫」の名がある。

これをどう理解すればよいか。

『古志家文書』を残した古志氏とは別に「新庄古志氏」の存在を想定すればよい。こう考えて文献史料を当たると、備後南部で活躍した古志氏として、天文期(一六世紀前半)に豊清(『横山文書』)、弘治・永禄期(一六世紀半ば)に先に掲げた豊綱、天正期(一六世紀後半)に元清(『厳島文書』)の名を見つけることが出来る。さらに、近世の文献であるが『水野記』寛永寺社記を紐解くと、沼隈郡本郷・神村・今津・東・西村(戦国期の古志氏の勢力圏である)の寺社の外護者として「古志正光以来、古志清左衛門に至る六代」「天正の末古志元綱」「天文年中、古志豊清」の名を見いだすことが出来る。「元清」「元綱」何れも毛利氏麾下の国衆の名乗りとして妥当なものである。すなわち、上記の史料を基に古志正光から豊清・豊網・元清を経て元網に至る新庄古志氏の系譜が復元されるわけで、筆者はこれを通説にいう古志氏(出雲古志氏)とは別に、備後南部の国衆「新庄古志氏」の系譜として認めたいのである(注②)。

なお、「新庄古志氏」の存在を認めると、『古志家文書』を伝えた古志氏(『本郷町誌』等の述べる「古志氏」である)の存在が問題となるが、これは、こう考えればよい。すなわち、同文書を伝えた古志家は吉信、重信以来の出雲古志氏の正当な後継者であったが、天正末年の毛利氏「惣国検地」の結果、出雲から備後へ移されたこと(注③)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦以後毛利氏を浪人し、そのまま備後南部に土着したこと。これがそもそも出雲古志氏と新庄古志氏が混同される原因となったのである(注④)。

注①拙稿新「庄古志氏についての一試論」(『備後の山城と戦国武士』)
注②同氏を出雲古志氏の一門とする考えまで否定するものではない。
注③『毛利氏八ヶ国時代分限帳」に「五百石二升四合、古志新十郎、備後恵蘇郡」「二百石一斗九升六合、古志因幡守、備後御調郡」とある。
注④新庄古志氏は文禄元年(一五九二)、毛利氏によって改易されたため家伝文書を残さなかった。

管理人中世史「備陽史探訪:84号」より 田口 義之 戦国時代、備後南部に勢力を持った国人領主に古志氏がいる。同氏は福山市本郷町の大場山城を本拠に、天正一九年(一五九一)まで、「新庄」と呼ばれた付近一帯を支配した。 この新庄古志氏(以下大場山城に居城した古志氏をこう呼ぶ)については、地元の労作『松永市本郷町誌』を初め『広島県史』『福山市史』等に、金江町の古志家に伝来した『古志家文書』に基づいて、その備後入部の経緯や系譜等が述べられている。 これらの文献によると、新庄古志氏は出雲国神門郡古志郷を名字の地とした「出雲古志氏」の一門であり、備後入部の経緯は、応永期(一五世紀初頭)に古志国信が備後守護山名氏の守護代として沼限郡新庄に入部したこと、以後歴代山名氏の被官として活躍したこと、また、最後の大場山城主と伝えられる古志豊長は、尼子の将として知られた古志重信の次男であったとされている。 しかし、従来主張されてきた新庄古志氏の系譜等に就いては問題点が多い。まず、最後の城主とされる豊長は、重信の活躍年代から推定して天正期(一六世紀後半)に活躍した人物と考えられるが、毛利氏麾下(きか)の古志氏がなぜ「豊」を名乗りの一字としたのか納得できない(当時、備後の国衆は、例外なく「元」あるいは「広」を毛利氏より与えられている)。さらに問題は、通説に新庄古志氏の根本史料とされている『古志家文書』は、ほとんど出雲古志氏の関係文書であって、備後での古志氏の活躍を示すとされる文書も、厳密に検討すると他の解釈も可能である(注①)。 これは一体何を意味するのであろうか。「新庄古志氏」は幻に過ぎないのであろうか。しかし、戦国期に「新庄古志氏」が存在したのは間違いない事実である。有名な弘治三年(一五五七)の毛利元就他備後国衆一七名連署の起請文案(毛利家文書二二五号)に「古志左衛門大夫豊網」の名があり、小早川・毛利家文書中の「毛利元就雄高山行向滞留日記」に備後国衆の一員として「古志左衛門大夫」の名がある。 これをどう理解すればよいか。 『古志家文書』を残した古志氏とは別に「新庄古志氏」の存在を想定すればよい。こう考えて文献史料を当たると、備後南部で活躍した古志氏として、天文期(一六世紀前半)に豊清(『横山文書』)、弘治・永禄期(一六世紀半ば)に先に掲げた豊綱、天正期(一六世紀後半)に元清(『厳島文書』)の名を見つけることが出来る。さらに、近世の文献であるが『水野記』寛永寺社記を紐解くと、沼隈郡本郷・神村・今津・東・西村(戦国期の古志氏の勢力圏である)の寺社の外護者として「古志正光以来、古志清左衛門に至る六代」「天正の末古志元綱」「天文年中、古志豊清」の名を見いだすことが出来る。「元清」「元綱」何れも毛利氏麾下の国衆の名乗りとして妥当なものである。すなわち、上記の史料を基に古志正光から豊清・豊網・元清を経て元網に至る新庄古志氏の系譜が復元されるわけで、筆者はこれを通説にいう古志氏(出雲古志氏)とは別に、備後南部の国衆「新庄古志氏」の系譜として認めたいのである(注②)。 なお、「新庄古志氏」の存在を認めると、『古志家文書』を伝えた古志氏(『本郷町誌』等の述べる「古志氏」である)の存在が問題となるが、これは、こう考えればよい。すなわち、同文書を伝えた古志家は吉信、重信以来の出雲古志氏の正当な後継者であったが、天正末年の毛利氏「惣国検地」の結果、出雲から備後へ移されたこと(注③)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦以後毛利氏を浪人し、そのまま備後南部に土着したこと。これがそもそも出雲古志氏と新庄古志氏が混同される原因となったのである(注④)。 注①拙稿新「庄古志氏についての一試論」(『備後の山城と戦国武士』) 注②同氏を出雲古志氏の一門とする考えまで否定するものではない。 注③『毛利氏八ヶ国時代分限帳」に「五百石二升四合、古志新十郎、備後恵蘇郡」「二百石一斗九升六合、古志因幡守、備後御調郡」とある。 注④新庄古志氏は文禄元年(一五九二)、毛利氏によって改易されたため家伝文書を残さなかった。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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