再び永禄二年の篠津原合戦について(久代宮氏と山内首藤氏の戦い)

備陽史探訪:82号」より

田口 義之

去年一二月、無念にも登山を断念した庄原市高町の篠津原雲井城に再び挑戦することになった。当日の晴天を祈りながらこの稿を書いているわけだが(三月二〇日)、私にとってもこの篠津原雲井城は長年の研究テーマの一つである。

前々号で、この篠津原をめぐる久代宮氏と山内首藤氏の戦いの概略を「永禄二年篠律原合戦記」として小説風にまとめてみた。概ね好評だったようで、二、三の方からご質問を頂いた。しかし、やはり論文でなかっただけに誤解を招いた点もあったようである。そこで、今回はこの合戦の当事者、久代宮氏と山内首藤氏の抗争を史料に基づいて検証し、改めてこの合戦の原因に迫ってみたい。

久代宮氏の姿が初めて『山内首藤家文書』に現れるのは、年不詳九月五日付の塩冶氏盛書状に於いてである。この書状は、氏盛が山内豊成に対して、豊成の要求した「宮高方知行分高郷」の安堵を守護山名俊豊に取りなすことを報じた文書で、年代(明応末年)から文中の「宮高」を久代宮氏の宮高盛に比定できる。つまり、一五世紀の段階では雲井城の存在する「高郷」は久代宮氏の支配下にあったのである。

次に同文書中に久代宮氏が現れるのは、下って天文年間(一五三二~一五五四)の後半のことである。この時期、山内首藤氏の当主は豊成の曽孫に当たる隆通であるが、同じく守護山名氏の重臣塩冶鋼が隆通に宛てて認めた条書(二一三号)に

一、宮跡職事、是又被加御袖判候間、可被得御意候
一、久代当知行分事、被成御判候、珍重候

とあるのである。

文意は、守護山名氏が「宮跡職」と「久代当知行分」の知行を山内首藤氏に認めたもので、これがすなわち、常に問題となる天文二二年(一五五三)一二月三日付山内隆通条書併毛利元就等連署返書(山内首藤家文書二一六号)の前提となった文書である。

「宮跡職」とは言うまでもなく、天文一〇年(一五四一)に断絶した備後宮氏の惣領「宮下野守家」の遺領のことで、同家の遺跡が久代宮氏と推定される宮彦次郎によって「切取」られたことは『大館常興日記』天文一〇年八月四日の条に明証がある。次の「久代当知行分」については、山内隆通条書の「宮家併東分小奴可、其他久代当時知行分」の「東分小奴可、其他久代当時知行分」に当たると考えられ、勃興期にあった久代宮氏が武力によって押領した他氏の所領のことであろう。

つまり、この文書は、山内首藤氏が久代宮氏に対して、その所領を要求しうる権利を上級支配者である守護山名氏に認めさせた、極めて重要な文書なのである(天文三二年の山内隆通条書に対する毛利元就の返書はこの権利の追認である)。

これら一連の文書の背景にあったのは言うまでもなく、久代宮氏と山内首藤氏の対立抗争である。久代宮氏は「久代」を称したように旧奴可郡の東南部に位置する東城町久代に興った国人である。同氏の戦国期の行動を見ると、居城を西城の大冨山に移しているように、東よりも常に西方庄原方面に関心を持っていたようである。この理由は判然としないが、その大きな要因は庄原盆地に割拠した山内首藤氏の存在にあったことは間違いない。

久代宮・山内の両氏は共に中国山地の砂鉄を経済基盤としていた。砂鉄は河川の水運によって他地域に運ばれる。居城を西城に置いた久代宮氏は城下の西城川の水運に関心を持っていたに違いない。れいし、その下流には山内首藤氏が盤踞していた。久代宮氏が西城川の水運を支配下に収めるためには山内首藤氏の勢力を押さえる必要があった。こうしたことが西城盆地の西の出口である高郷に両氏が執着した原因ではなかろうか。

さて、久代宮・山内両氏の抗争は天文三二年の暮、遂に発火点を迎えた。同年の一二月は備後北部で戦われた尼子・毛利の合戦が、尼子氏の敗退によって一段落した時期である。両氏は周辺から尼子の勢力が後退した時期を見計らって実力行使に及んだ。

同年一二月二九日付の毛利隆元の自筆書状は言う、

来春に於いては、やがて山内・久代は取り相いを始め候事たるへく候

(「毛利家文書」六六三号)と。

ここで面白いのは、隆元はこの戦いで毛利氏は久代宮氏を援助するべきだと父元就に述べていることである。毛利氏としては隆通条書の返事で、山内首藤氏に対して久代宮氏の「当知行分」の領有を認めた筈である。にもかかわらず、この文書で隆元は「久代へは一廉力を副」えると一言っている。これは一体どういうことか。考えられるのは毛利氏は「二枚舌」を使っていたのではないか、ということである。おそらく久代宮氏に対しても何らかの保証を与えていたのであろう。一方の当事者(ここでは山内首藤氏)の文書だけで物事を判断すると大変な過ちを犯すことになるいい例である。

この時期の両氏の抗争を示す良い例は、世羅郡の国人湯浅里宗に宛てた年欠一〇月四日付山内隆通書状(『萩藩閥閲録』一〇四)である。この書状によると、山内・久代宮の両氏は神石郡神石町一帯で合戦を繰り広げたようで、山内氏には同町高光の高光氏が味方し、久代宮氏の側には同町永野の黒岩城主宮氏が味方し、互いに勝敗があったようである。隆通が未だ「少輔四郎」と称していた時期のものであるから、天文末年のこの時期のものとしてよい。

永禄に入っても両氏の抗争は幕を閉じなかったようである。天正八年(一五八〇)九月六日付の宍戸隆家同元孝連署起請文によると、

小笠原陣中に於いて久代、(山内隆通が毛利氏に対して)現形致すべしと申し、御領(山内氏領)高の儀、彼方(久代宮氏)持ち出しに仕るべし

と、毛利氏に注進に及んだと言う(「山内首藤家文書」一八四号)。「小笠原陣中」とあるから、毛利氏が尼子方の石見小笠原氏を攻撃中の永禄元年のことである。この時は山内氏に親しい宍戸氏が隆通の無実を申し張り、事なきを得たと言うが、(同上)時期と言い、御領「高」が焦点になっていることと言い、この事件が永禄二年(一五五九)の「篠津原合戦」の直接の導火線になっていることは間違いない。

すなわち、永禄二年六月の「篠津原合戦」は、天文年間の久代宮氏の西方への進出を背景とし、天文二二年末以来戦われた久代宮氏と山内首藤氏の対立抗争の、最後の武力対決と捉えるべきなのである。なお、「篠津原合戦」の日時を「天文二二年」とする説もある(伊藤本『久代記』)が誤りであろう。一般本『久代記』を始め、比較的良質な近世史料は皆永禄二年説を採っており、史料による限り、両氏の抗争舞台に「高」が現れるのは、先に述べたように永禄元年、西暦一五五八年のことなのである。

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管理人中世史「備陽史探訪:82号」より 田口 義之 去年一二月、無念にも登山を断念した庄原市高町の篠津原雲井城に再び挑戦することになった。当日の晴天を祈りながらこの稿を書いているわけだが(三月二〇日)、私にとってもこの篠津原雲井城は長年の研究テーマの一つである。 前々号で、この篠津原をめぐる久代宮氏と山内首藤氏の戦いの概略を「永禄二年篠律原合戦記」として小説風にまとめてみた。概ね好評だったようで、二、三の方からご質問を頂いた。しかし、やはり論文でなかっただけに誤解を招いた点もあったようである。そこで、今回はこの合戦の当事者、久代宮氏と山内首藤氏の抗争を史料に基づいて検証し、改めてこの合戦の原因に迫ってみたい。 久代宮氏の姿が初めて『山内首藤家文書』に現れるのは、年不詳九月五日付の塩冶氏盛書状に於いてである。この書状は、氏盛が山内豊成に対して、豊成の要求した「宮高方知行分高郷」の安堵を守護山名俊豊に取りなすことを報じた文書で、年代(明応末年)から文中の「宮高」を久代宮氏の宮高盛に比定できる。つまり、一五世紀の段階では雲井城の存在する「高郷」は久代宮氏の支配下にあったのである。 次に同文書中に久代宮氏が現れるのは、下って天文年間(一五三二~一五五四)の後半のことである。この時期、山内首藤氏の当主は豊成の曽孫に当たる隆通であるが、同じく守護山名氏の重臣塩冶鋼が隆通に宛てて認めた条書(二一三号)に 一、宮跡職事、是又被加御袖判候間、可被得御意候 一、久代当知行分事、被成御判候、珍重候 とあるのである。 文意は、守護山名氏が「宮跡職」と「久代当知行分」の知行を山内首藤氏に認めたもので、これがすなわち、常に問題となる天文二二年(一五五三)一二月三日付山内隆通条書併毛利元就等連署返書(山内首藤家文書二一六号)の前提となった文書である。 「宮跡職」とは言うまでもなく、天文一〇年(一五四一)に断絶した備後宮氏の惣領「宮下野守家」の遺領のことで、同家の遺跡が久代宮氏と推定される宮彦次郎によって「切取」られたことは『大館常興日記』天文一〇年八月四日の条に明証がある。次の「久代当知行分」については、山内隆通条書の「宮家併東分小奴可、其他久代当時知行分」の「東分小奴可、其他久代当時知行分」に当たると考えられ、勃興期にあった久代宮氏が武力によって押領した他氏の所領のことであろう。 つまり、この文書は、山内首藤氏が久代宮氏に対して、その所領を要求しうる権利を上級支配者である守護山名氏に認めさせた、極めて重要な文書なのである(天文三二年の山内隆通条書に対する毛利元就の返書はこの権利の追認である)。 これら一連の文書の背景にあったのは言うまでもなく、久代宮氏と山内首藤氏の対立抗争である。久代宮氏は「久代」を称したように旧奴可郡の東南部に位置する東城町久代に興った国人である。同氏の戦国期の行動を見ると、居城を西城の大冨山に移しているように、東よりも常に西方庄原方面に関心を持っていたようである。この理由は判然としないが、その大きな要因は庄原盆地に割拠した山内首藤氏の存在にあったことは間違いない。 久代宮・山内の両氏は共に中国山地の砂鉄を経済基盤としていた。砂鉄は河川の水運によって他地域に運ばれる。居城を西城に置いた久代宮氏は城下の西城川の水運に関心を持っていたに違いない。れいし、その下流には山内首藤氏が盤踞していた。久代宮氏が西城川の水運を支配下に収めるためには山内首藤氏の勢力を押さえる必要があった。こうしたことが西城盆地の西の出口である高郷に両氏が執着した原因ではなかろうか。 さて、久代宮・山内両氏の抗争は天文三二年の暮、遂に発火点を迎えた。同年の一二月は備後北部で戦われた尼子・毛利の合戦が、尼子氏の敗退によって一段落した時期である。両氏は周辺から尼子の勢力が後退した時期を見計らって実力行使に及んだ。 同年一二月二九日付の毛利隆元の自筆書状は言う、 来春に於いては、やがて山内・久代は取り相いを始め候事たるへく候 (「毛利家文書」六六三号)と。 ここで面白いのは、隆元はこの戦いで毛利氏は久代宮氏を援助するべきだと父元就に述べていることである。毛利氏としては隆通条書の返事で、山内首藤氏に対して久代宮氏の「当知行分」の領有を認めた筈である。にもかかわらず、この文書で隆元は「久代へは一廉力を副」えると一言っている。これは一体どういうことか。考えられるのは毛利氏は「二枚舌」を使っていたのではないか、ということである。おそらく久代宮氏に対しても何らかの保証を与えていたのであろう。一方の当事者(ここでは山内首藤氏)の文書だけで物事を判断すると大変な過ちを犯すことになるいい例である。 この時期の両氏の抗争を示す良い例は、世羅郡の国人湯浅里宗に宛てた年欠一〇月四日付山内隆通書状(『萩藩閥閲録』一〇四)である。この書状によると、山内・久代宮の両氏は神石郡神石町一帯で合戦を繰り広げたようで、山内氏には同町高光の高光氏が味方し、久代宮氏の側には同町永野の黒岩城主宮氏が味方し、互いに勝敗があったようである。隆通が未だ「少輔四郎」と称していた時期のものであるから、天文末年のこの時期のものとしてよい。 永禄に入っても両氏の抗争は幕を閉じなかったようである。天正八年(一五八〇)九月六日付の宍戸隆家同元孝連署起請文によると、 小笠原陣中に於いて久代、(山内隆通が毛利氏に対して)現形致すべしと申し、御領(山内氏領)高の儀、彼方(久代宮氏)持ち出しに仕るべし と、毛利氏に注進に及んだと言う(「山内首藤家文書」一八四号)。「小笠原陣中」とあるから、毛利氏が尼子方の石見小笠原氏を攻撃中の永禄元年のことである。この時は山内氏に親しい宍戸氏が隆通の無実を申し張り、事なきを得たと言うが、(同上)時期と言い、御領「高」が焦点になっていることと言い、この事件が永禄二年(一五五九)の「篠津原合戦」の直接の導火線になっていることは間違いない。 すなわち、永禄二年六月の「篠津原合戦」は、天文年間の久代宮氏の西方への進出を背景とし、天文二二年末以来戦われた久代宮氏と山内首藤氏の対立抗争の、最後の武力対決と捉えるべきなのである。なお、「篠津原合戦」の日時を「天文二二年」とする説もある(伊藤本『久代記』)が誤りであろう。一般本『久代記』を始め、比較的良質な近世史料は皆永禄二年説を採っており、史料による限り、両氏の抗争舞台に「高」が現れるのは、先に述べたように永禄元年、西暦一五五八年のことなのである。 <関連記事> 永禄二年篠津原合戦記備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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