街道に眠る馬の供養塔と俚謡『藪路天神坂馬殺し』(福山市千田町)

備陽史探訪:81号」より

出内 博都

1号碑
1号碑

路傍の文化財

福山市千田町藪路から奈良津町に越す旧山陽道の北麓、三軒屋集落の街道脇に四国八十八ヶ所地蔵が祀られている。そのお地蔵さんに寄り添うように、馬像を刻んだ小さな石碑が立っている。三軒屋集落の南端に近いK化学工業の西手から南へ百数十メートルの間に四基の供養塔がある。

福山に築城され、城下町が形成されてから、横尾から三軒屋土手ができ、大峠を越え、胡町の惣門にいたる道が、広い後背地から城下へのメインストリートになった。その場合、地形的にみて千田・横尾が水陸の要衝である。すでに「元禄検地御水帳」には藩営渡船場や水主屋敷もあり、横尾には十数件の商家が存在したことが知られる。在郷町横尾が経済的に発展したことは、幕末の「千田宝講」の設立や「福山藩義倉」の設立者河合周兵衛の活躍などによって知ることができる。

こうした情勢の中で、千田・横尾が後背地から大消費地福山への物資搬入の集散地になったことは当然であろう。当時、物資の輸送というと舟と馬である。芦田川の舟便も利用されたであろうが、城下町の中心地港町の位置からみて、最短距離は藪路・大峠道である。正徳年間(一七一一~一七一六)に三軒屋土手が築かれたとき、この道はかなり改修されたとは思うが、もともと現国道大峠の西側山中に「塞の神」が祀られていることからみても、かなりの急坂であったことは容易に想像がつく。ここに「藪路天神坂馬殺し……」の俚謡が生まれる要因があったのであろう。

千田の地籍図によると、「孫才」という地名がある。これは現在まで続いている(現在の公民館=元の役場、小学校付近)。この地名の由来は人名ともみられるが、「まご」という発音から最も端的に思い出されるのは「馬子」という言葉である。さらに「さい」という語については「宰領」という語から転化したのではないだろうか。

小学館の国語辞典によれば、宰領という語の解釈の一つに

宰領 才領。中世以降、荷物を運送する駄馬や人夫をひきつれ、その指揮、監督、護衛にあたること。また、その役

という解説がなされている。かなりしっかりとした馬子の集団管理施設、その管理人および物資の保管・配分の総合施設が考えられる。現代流にいえば、「トラックターミナル」とでもいえようか。ここから「馬子宰」が生まれ、その転化が「孫才」となったのではないだろうか。

『福山志料』によれば、深津郡の牛馬の頭数は「牛 八四〇頭、馬 一四六頭」である。農耕用の家畜としては、東国は馬、西国は牛というのが一般的である。この地方では、馬は交通・輸送のためのものであった。馬が村に十頭以上いる村は、市村十三頭、引野村十三頭、坪生村十五頭、吉田村十三頭、千田村十八頭、中津原村十五頭などである。これをみると、みな街道筋の村々である。千田が頭数が最も多いのも「馬子宰」という施設があったためではないだろうか。

荷馬車は昭和初期まで物資輸送のかなりの部分を占めていた。福山から三十余キロ奥の私の郷里で、昼過ぎに休息中の馬車の小父さんに、馬の「かいば(飼料)」として葛葉かずらの葉をホボロ(ざる)につめて持っていき、飴玉などをもらった牧歌的な記憶が甦ってくる。そのとき馬車の小父さんが「横尾から来た」といった言葉が思い出される。福山市内を馬車で歩くのもはばかられて、横尾あたりが馬車荷の集散地だったようである。これも近世の「馬子宰」の伝統があったからであろう。

一日に何回か通う天神坂の急坂、馬の消耗も激しかったであろう。こうして共に生活を闘った愛馬を偲んだ人々の思いが、この小さな碑の素朴な馬像ににじみ出ているように思われる。

今はすっかり脇道に変わった三軒屋の道路も、かつては山陽道のメインストリートとして賑わった日もあった。こうした変遷をこれらの碑はどう眺めているだろう。栄光の山陽道の貴重な文化財である。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/dd4e5a2abac333555555f949a7b5f46a.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/dd4e5a2abac333555555f949a7b5f46a-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:81号」より 出内 博都 路傍の文化財 福山市千田町藪路から奈良津町に越す旧山陽道の北麓、三軒屋集落の街道脇に四国八十八ヶ所地蔵が祀られている。そのお地蔵さんに寄り添うように、馬像を刻んだ小さな石碑が立っている。三軒屋集落の南端に近いK化学工業の西手から南へ百数十メートルの間に四基の供養塔がある。 福山に築城され、城下町が形成されてから、横尾から三軒屋土手ができ、大峠を越え、胡町の惣門にいたる道が、広い後背地から城下へのメインストリートになった。その場合、地形的にみて千田・横尾が水陸の要衝である。すでに「元禄検地御水帳」には藩営渡船場や水主屋敷もあり、横尾には十数件の商家が存在したことが知られる。在郷町横尾が経済的に発展したことは、幕末の「千田宝講」の設立や「福山藩義倉」の設立者河合周兵衛の活躍などによって知ることができる。 こうした情勢の中で、千田・横尾が後背地から大消費地福山への物資搬入の集散地になったことは当然であろう。当時、物資の輸送というと舟と馬である。芦田川の舟便も利用されたであろうが、城下町の中心地港町の位置からみて、最短距離は藪路・大峠道である。正徳年間(一七一一~一七一六)に三軒屋土手が築かれたとき、この道はかなり改修されたとは思うが、もともと現国道大峠の西側山中に「塞の神」が祀られていることからみても、かなりの急坂であったことは容易に想像がつく。ここに「藪路天神坂馬殺し……」の俚謡が生まれる要因があったのであろう。 千田の地籍図によると、「孫才」という地名がある。これは現在まで続いている(現在の公民館=元の役場、小学校付近)。この地名の由来は人名ともみられるが、「まご」という発音から最も端的に思い出されるのは「馬子」という言葉である。さらに「さい」という語については「宰領」という語から転化したのではないだろうか。 小学館の国語辞典によれば、宰領という語の解釈の一つに 宰領 才領。中世以降、荷物を運送する駄馬や人夫をひきつれ、その指揮、監督、護衛にあたること。また、その役 という解説がなされている。かなりしっかりとした馬子の集団管理施設、その管理人および物資の保管・配分の総合施設が考えられる。現代流にいえば、「トラックターミナル」とでもいえようか。ここから「馬子宰」が生まれ、その転化が「孫才」となったのではないだろうか。 『福山志料』によれば、深津郡の牛馬の頭数は「牛 八四〇頭、馬 一四六頭」である。農耕用の家畜としては、東国は馬、西国は牛というのが一般的である。この地方では、馬は交通・輸送のためのものであった。馬が村に十頭以上いる村は、市村十三頭、引野村十三頭、坪生村十五頭、吉田村十三頭、千田村十八頭、中津原村十五頭などである。これをみると、みな街道筋の村々である。千田が頭数が最も多いのも「馬子宰」という施設があったためではないだろうか。 荷馬車は昭和初期まで物資輸送のかなりの部分を占めていた。福山から三十余キロ奥の私の郷里で、昼過ぎに休息中の馬車の小父さんに、馬の「かいば(飼料)」として葛葉かずらの葉をホボロ(ざる)につめて持っていき、飴玉などをもらった牧歌的な記憶が甦ってくる。そのとき馬車の小父さんが「横尾から来た」といった言葉が思い出される。福山市内を馬車で歩くのもはばかられて、横尾あたりが馬車荷の集散地だったようである。これも近世の「馬子宰」の伝統があったからであろう。 一日に何回か通う天神坂の急坂、馬の消耗も激しかったであろう。こうして共に生活を闘った愛馬を偲んだ人々の思いが、この小さな碑の素朴な馬像ににじみ出ているように思われる。 今はすっかり脇道に変わった三軒屋の道路も、かつては山陽道のメインストリートとして賑わった日もあった。こうした変遷をこれらの碑はどう眺めているだろう。栄光の山陽道の貴重な文化財である。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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