1998年02月07日

深津市の栄枯盛衰 えびすさんはいま琴平におわす

備陽史探訪:81号」より

柿本 光明

神事場のおいべっさん

神事場のおいべっさん


深津市は現在の福山市蔵王町の一部の地名であった。福山市と合併する(昭和三一年)までは深津郡市村といっていた。村名の起こりは当時その地区は山陽道でも有名な深津の市があり、かつて盛大に交易をしていたことに因むもので、「市」と称したのはずいぶん早くから当地が開けたことも証拠づけるものである。

『備陽六郡志』に

往古海蔵寺という寺あり。当村の生土八幡は海蔵寺の鎮守なりしとぞ。則海蔵寺の跡は八幡の境内にありて礎今に残れり

とある。

この伝海蔵寺跡は、昭和四四年に「宮の前廃寺」として、国の史跡指定を受けている。この時の調査によると、この寺は奈良時代の前期から中期に金堂が建てられ、その後、三重と思しき塔が建てられたという。

昭和五年に宮の前廃寺を発見された早稲田大学の西村真次博士の『日本古代市場の研究』に、代表的な古代市場が紹介されている。

まず、大和の市場は寧楽(なら)(藤原京)である。都にあり、文化の中心だったからだ。また、『記紀』に名を残し、古代から栄えている市場としては高市・軽市(摂津)、餌香市(河内)などがある。奈良時代では地方市場として阿部市(駿河)、小川市(三野)があげられ、深津市(備後)も載っている。

海蔵寺の門前に、いつの頃とはなしに、各地から綿や布や塩や馬などが集められ、遠く四国の讃岐などからも海産物を持ち込まれて交易されていたという。これが深津の市である。この門前市は当時、大変賑わっていたことがうかがえる。

平安時代の初期、奈良薬師寺の僧景戒によって撰録された仏教説話集『日本霊異記』に備後の深津の市のことが出ている。

光仁天皇の御代の宝亀九年(七七八)の冬十二月備後国葦田の郡大山の里の人、品知牧人が正月のものを買おうと、同国の深津郡深津の市に向かっていった。道の途中で日が暮れた。そこで葦田の郡の葦田の竹藪に泊まった。すると野宿している所のあたりから声がして、『目が痛い』といっている。牧人はこの声を聞き、一晩中眠らずにうずくまっていた。明くる朝、見ると一つの髑髏があった。(中略)その髑髏は人間の姿になって『わたしは葦田の郡屋穴国の穴君の弟公です。盗賊の叔父秋丸に殺されたものです(後略)』と告げた。(中略)盗賊秋丸は、すべて図星で心中恐ろしくなって、もはや隠すこともできずに白状した。『去年の十二月下旬、正月元日の物を買おうと、わたしは弟公をいっしょに市に連れて行きました。弟公が持って行った物は、馬・布・綿・塩などでした。途中、日が暮れ、竹藪に泊まり、こっそり弟公を殺して、その持ち物を奪い取り、深津の市に行って馬は讃岐の国の人に売り、その他の物は時おり出して用いています』といった

この『日本霊異記』に「正月の物を買はむが為に」深津の市に出かけるなどと記述されているとおり、深津市は古くから栄えた有名な市場であった。

南は海上三五キロの彼方、四国の讃岐より、北は約三〇キロもある芦田・府中方面から多くの人たちが、この海蔵寺門前の深津市に集まり、盛んに交易をしていたのである。そのためか、今でも「宿」―市場に来た人々が泊まったところか―、「馬宿」―馬を留めたところだろうか―などの地名が残っている。

『備陽六郡志』の「宿(しゅく)の夷」の項に

宿という字あり、昔牛馬の市たちたる所あり、そこに胡の社ありて神躰は伽羅にて刻たる壹尺餘の像なりしが(略)

とある。また『西備名区』の今宿の項には、

元禄の頃まで小さき町がありて牛馬互市せり。胡の社ありしが、神躰伽羅木にて作れるなり(略)

と記載されている。

えびす(恵比須、戎、恵比寿)とは、古くは豊漁の神、後は七福神の一人として、生業を守り、福をもたらす神とされており、狩衣・指貫・風折烏帽子をつけ、右手わきに鯛をかかえている。土地の人、市場に来る人たちも、この御神躰を商売の神として拝み、市場の繁栄を祈り続けていたであろう。

海が深く湾入した奥にある船着き場であったので深津と称していた深津湾も、時が立つに従い、海退現象も手伝って市場近くまで入っていた海もだんだん浅くなっていった。

たとえば、元和五年(一六一九)大和郡山の城主から備後・備中九郡十万石の領主に封じられた水野日向守勝成も、備後神辺城に入るのに、まず鞆に着き、そこから田尻に移り、そこから小舟に乗り移って市村の網木に舟をつけ、ここから上陸して神辺に向かったといわれている。

このように浅くなった深津湾は、海から市場への海産物の搬入も讃岐との取り引きもできなくなり、だんだんさびれ衰微していったという。

なお、市村沖が干拓されたのは、水野美作守勝重(後の勝俊)が国許総奉行、神谷治部・小場兵左衛門に命じて一六四三(寛永二〇)から始められたものである。

ともかく、往古あれだけ栄えた門前の深津市が、平安時代後期(?)の海蔵寺金堂焼失、次いで塔崩壊により、徐々に衰微していったのか、それとも海退現象により、船の出入りが困難になったため衰えたのか、いろいろと考えさせられた。

ところで、前述の『備陽六郡志』の続きに

それを讃岐に盗まれ、その跡に地蔵を建置されり。件の胡、金毘羅の市中に勧請す。是より金昆羅、弥増に繁昌するといへり。胡を盗まれたは元禄の頃のことなり

とあり、また『西備名区』にも

これを元禄年中に盗賊奪い去りて讃州に沽却せり、今金昆羅山の下の町の胡是なりと云

とある。私はこの両文献をよく読んでいたのだが、伽羅木の胡が盗まれ、金昆羅山の下の町にあるということには、つい最近までそれほど気に留めていなかった。しかし、『備陽六郡志』に

件の胡、金毘羅の市中に勧請す。是より金毘羅、弥増に繁昌するといへり

とあるように、あるいは、この伽羅木の胡の盗難が深津市の衰微の遠因となったのではないか、とも思え、また、胡さんのその後も気になったので、讃岐の金昆羅山(琴平町)を探訪してみることにした。

岡山からJR瀬戸大橋線に乗り換え、土讃線を経て琴平駅に下りる。右に高灯籠を見ながら鳥居をくぐって大宮橋を渡り、参道を左に折れる。さらに、両側に商店の並ぶ神明町を通って左に折れる。だが、一ノ橋を渡り、新町商店街から旧高松街道まで歩いても件の胡が見当たらないので、琴平駅の東裏にある琴平町役場(教育委員会)を訪ねることにした。

教育委員会では、ちょうどいま町史編纂を行なっているとのことで、その担当者に会わせてくれた。その際、深津市にあった伽羅木で作られた胡が金毘羅に勧請された胡であるという記事(『備陽六郡志』と『西備名区』のコピー)を見せ、この胡を探していると話すと一瞬驚いて、「実は琴平町のこの胡はいつどこで作られたかを調査していたところです。この胡は町内の神事場というところにあります」と教えてくれた。

町役場を後にし、線路づたいに琴平高校の前を左に折れ、線路を渡って今橋の手前を左に行くと、約一五分で神事場にたどり着く。神事場の西側を流れる金倉川には、橋柱がなく、屋根のある珍しい橋が架かっている。これを渡って通町を通り、七八五段の石段を登ると金刀比羅宮に辿り着く。この神事場広(場)の中に二、三の社がある。その一つが目的の胡社であった。

琴平町教育委員会で、この胡社について次のような資料をいただいた。

えびす社
阿波町神事場内に建っている。このえびすさん(おいべっさん)はもと南新町に祀られていたものである。
文久元年(一八六一)九月、新町から南新町に抜ける道の西側、東向きに祀られた。これは万延元年(一八六〇)この辺りに魚会所が出来たためである。その後、元治元年(一八六四)阿波町神事場に移し奉ったものである。
祭礼は毎年夏、行なわれている。世話役は阿波町の有志が大勢それに当たっている。
なお、神殿の前の石灯籠は、阿波町、片原町と昔の阿波街道名を刻んでおり、奉納の年は、寛延三年(一七五〇)である

ところが、『備陽六郡志』『西備名区』ともに、盗まれたのは元禄年間(一六八八~一七〇三)と伝えているので、琴平の町に奉納されたのは、仮に石灯籠が奉納された寛延三年(一七五〇)としても、五、六十年の誤差がある。しかしそれは、盗んできたものをすぐに祀るというのではなく、どこかに隠しておいて時期をみて祀ったということもできるのではないだろうか。

社殿の鍵を開けてもらい、中の御神外を拝観させていただくと、正しく私の頭の中に描いていた胡さんにそっくりである。紫檀ともいえようか、黒檀ともいえようか、埃をかぶって黒煤けたした御神躰を手にしてみて、ずっしりとした重みに身の引き締まる感動を覚えた。

これが、あの遠き昔、備後国深津市の弥栄(やさか)えていた時、町の片隅に御座した胡さんである。盗まれたというが、勧請されもする。時代の流れは移り変わり、琴平は栄え、市村は衰微したことは、まさに栄枯盛衰を物語るものである。