1997年06月14日

木之上城遺跡に関する付記(福山市神辺町東中条)

備陽史探訪:77号」より

松岡 正三

前号に掲載された拙稿の文末の付記について追加したい事柄があるので次の通り補足する。

まず第一項についてやや詳しく述べれば、金尾太郎光国は近江の出自の尼子に与し、山城・丹後を経て、山陰にきたと思っている。

また、新たに以下の第四項~第六項を加える。

四、平成九年四月に入手した『笠木山高松寺誌』によると、龍華寺初代住持・桂巌周昌和尚は、初代城主・金尾遠江守延貞の三男として生まれたと言う。

また、芳井の重玄寺開基・千畝周竹和尚が、桂巌に重玄寺を付与すると言う置文により長禄二(一四五八)年からは重玄寺二世になったと言う。

なおまた、文明一〇(一四七八)年には、仏通寺二十五世となったと言う。

延徳元(一四人九)年二月二十日に桂巌は示寂する。時に八十二才であった。

五、木之上城の落城については、八代金尾長門守信国が戦いに敗れて、庵を結び僧となっているので、没年の天文一九(一五五〇)年六月一三日以前、ということになる。

四川(志川)滝山城の落城については、かなりくわしい史料がある。木之上城と同じく尼子であったことから調べてみた。

吉田町立歴史民俗資料館で求めた小都勇二著『毛利元就伝』の年表には、

天文二一(一五五二)年七月 志川滝山城を攻陥、城主宮光寄備中に逃走

とある。

元吉田高校教諭であった森本繁氏の『備後史夜話』にも、

元就が志川滝山の宮氏を攻めたのは、天文二一年七月二三日である。

と。

『福山市史』にも、天文二一(一五五二)年七月二三日とある。

ところが、四川滝山城、落城四百年顕彰追悼法要と戦没者慰霊式が、昭和二五(一九五〇)年四月二一日と二二日の両日盛大に勤められた西蓮寺の寺記には、次のような記録がある。

五世永正法師の頃に、

天文一八(一五四九)年八月落城す。嫡男剃髪し、永正と名乗り、天文一九(一五五〇)年より当寺を相続する。

とある。また『広瀬村誌』には、

天文十九(一五五〇)年四川滝山城主宮越後守入道して、光音と号す。西蓮寺を再興す。第三世の住居とす。

という記事もある。しかし、寺記によると第三世は「誓念法師」で、應永三一(一四二四)年一一月二八日寂となっている。

天文二〇(一五五一)年九月一日に大内義隆は深川の大寧寺で自刃しているので、今後の検討課題である。

六、「木之上遺跡を守る会」は、福山市金江町の田頭隆義氏のご推薦により、平成九年四月二五日付けで、「小さな親切」実行章団体表彰を贈られた。

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