1995年10月14日

承応事件と明王院(徳川家光奉祀と偽作史料)

備陽史探訪:67号」より

小林 定市

徳川家康が天下人となり江戸幕府を創業し、二代を相続した秀忠は後継者として幕府の安泰を計り、三代家光は老中若年寄制度を整えて幕府の集権体制をほぼ完成させ、大目付の設置をみ、寺社奉行・町奉行・勘定奉行を整え幕府執行部を成立させて、ゆるぎない幕府体制を確立した。

家光が慶安四年(一六五一)四月二十日に、四八才で病没すると継子家綱は十一才の若君であった。

関ヶ原合戦後、徳川三代の間に改易された大名家は一三一家にのぼり、その没収総高は一二一五万石に達していた。

大名が取漬されると浪人が大量に発生し、浪人は仕官の途を求めて江戸・京都・大坂に集まるが、再任官の道は閉ざされ、生活に窮した浪人達の不満は爆発寸前のところまで膨らんでいた。

幼少の家綱が将軍の座に就くと、そこに将軍独裁政治の空自が生じた。この機会に乗じて、由井正雪・丸橋忠弥を首領とする浪人達の徳川幕府を転覆しようとした陰謀事件(慶安事件)が同年七月二四日に発覚した。

この政局の極めて不安な状況のさなか、翌年続いて発生したのが承応事件である。承応元年(一六五二)九月十三日に露顕し未発に終ったこの事件の主謀者は、越前大野松平但馬守直富を古主として江戸の芝札の辻に住む、別木(戸次)庄左衛門・土岐与左衛門・三宅平六・藤江又十郎・林戸右衛門らであった。

叛乱計画の内容は、九月五日より芝増上寺で行なわれている徳川秀忠夫人崇源院の二七回忌の法会が十五日に終るのを待って、風の烈しい夜増上寺の周辺数ヶ所に火を放ち、寺に乱入して財宝や香奠の金銀を奪い取る。その際、火消の指揮をとるため出動する老中を待伏し、鉄砲又は遠矢で打落すと府内は大騒動となるから、その虚に乗じて天下の変を窺わんとするものであった。

取調べが進むと浪人以外にも、普譜奉行城半左衛門朝茂の家中長島刑部左衛門(長島は幕府が放ったスパイだった)、老中阿部豊後守忠秋の臣山本兵部(二百石)、福山水野美作守勝俊の家中で、兵学者石橋源右衛門(三百石)も関与していたことが判明する。

別木らは、最所の取調べで、石橋が課叛の張本人であると名指していたことから、十九日評定所において尋間があり、別木らは、石橋に挙兵の方法を尋ねた後、陰謀を打ち明け二百余名の連判状を示して石橋の判形を求めた。

石橋は驚き次の返答をした。「今御静謐の御代を乱さんとは、須弥山に長競べ、石を抱いて渕に入るに等し、先年由井正雪無道の徒党を企だて忽に誅せられ、骸の上に恥を曝す、前車の覆るは後車の戒めなるべし」と応じなかった。

その後別木は石橋の宅を三度も訪間するが、何れも留守と称して対面を回避した。

しかし、別木らの謀反を聞きおき乍、主人美作守勝俊に押し隠し報告しなかったことを咎められ、判決は主謀者と同罪と決まり、取調べから二日後の二一日に断罪が下され、石橋源右衛門を含め六人の主謀者は浅草において傑刑、石橋源右衛門の弟又次郎(十五才)と、子息の兵部左衛門(五才)も同日浅草において斬罪となった。

史料の上からは、承応事件は石橋の処刑で終ったように見えるが、実は承応事件をきっかけとして、領主勝俊の苦心は始まる。当時幕府は権力強化を計り、大名の廃絶を推進していた。幕府転覆に加担した家臣を出した大名家は譜代と雖も法律的理由により何時でも取漬される状況にあった。

取潰しを避けるため、勝俊は早急に徳川家に対して恭順の意を表わす必要に迫られた。

最も効果があると考えられたのは、大猷院(徳川家光)を鄭重に祀ることであった。先代からの方法で徳川家光を祀るのであれば、浄土宗定福寺に秀忠に続いて家光も祀れば済まされたが簡略であり過ぎた。

当時水野家の財政状況は、寛永十二年(一六三五)八月、幕府から金銀併せて約一八三〇〇両の拝借金があり、約一一七四〇両は返還していたが未返済金が約六五六〇両残っていた。寛永中期頃の飢饉・島原合戦の軍費・寛永末期から始まる新開干拓と出費は嵩み、更に慶安四年三月に水野勝成が没したことで、弔いの費用も算段しなければならず、極度に悪化していた。

承応元年から明暦元年にかけて財政は逼迫し、知行物成を切り下げてしのいでいる。この困難な時、新たに寺社の造営となると莫大な費用の捻出を必要としたことから、苦心の末案出されたのが奈良屋町の明王院と草戸村の常福寺を合併させて、領内随一の大寺を創出し、先代の徳川将軍を祀ることであった。

当時の明王院は、福山城天守の上棟式を執行した宥将が健在で住職を勤めていた。

水野勝成が隠居し、勝俊が領主となった後も勝成との二元政治を行ってきたのであるが、勝成の死を機会に宥将を退院させて、明王院を草土村に移建させたようで、移建工事を推進した勝俊も、勝成の死後四年足らずの明暦元年(一六五五)二月二一日江戸参府中に死去してしまった。

残念なことに、現在の明王院には寺伝を飾る創作伝承や、史料の厳正な真偽判定を受けていない疑問の多い史料が混在していても、全ての史料は本物として取扱かわれているが、極言すると明王院の史料には偽作と推定される史料がある。

明王院には領主水野家との古くからの関係を示す建物として、庫裡と書院があって、庫裡と書院は水野勝成が元和七年(一六二一)に移建したと伝えられ、本堂(観音堂)も山崩れで元和七年に再建したことを示す二枚の大棟札には、大同二年の棟札が写され、寛永十四年(一六三七)十一月には、定福寺(現在の明王院)の僧舜意宛に出した水野勝成の下知状が伝えられている。

下知状の差出者は、「水野日向守勝成花押」と書いてある。しかし、勝成が水野日向守勝成と書く時は特別の場合のみであった。

勝成が水野日向守勝成花押と書いて知られている史料は、幕府宛に出した三通と、広島の浅野但馬守宛の一通で、水野日向守勝成花押と認めた時は、目上に差出す時に限定されていた。

勝成程の人が、領内の僧宛に出す時は絶対に書かなかった筈で、目下宛の史料は『小場家文書』や『結城水野家文書』にあるように「勝成花押」と認めている。

次に、慶安四年(一六五一)に福山入りした野々口立圃は『草戸記』に、正面に本堂、国宝五重塔の反対側にあたる位置、則ち現在の庫裡のあたりに「阿弥陀堂として形ばかり残り」と、当時阿弥陀堂が建っていたと、阿弥陀堂が存在していたことを記していることから、庫裡が移建されたのは寺伝と異なり、慶安四年より後のこととなる。

阿弥陀堂は、本堂や五重塔と同時期に建立されたものと推定され、明王院に阿弥陀如来立像木像像高一八三cm・鎌倉時代末期の作の仏像があるが同像は、阿弥陀堂の本尊であったものと推定される。

水野家の目付吉田彦兵衛は、「農民は大同の年建などといへり、棟札もあれハ大同年あらず、数百年をヘたる堂塔なり」(『水野記』巻十三草土村明王院)と現在知られている以外の棟札が、江戸時代中期迄存在したと記している。

棟札には元和六年四月、「天大雨頻重月古今洪水山岸崩仏閣埋土中既及破壊所」のとき、水野日向守が再興したと銘文に記しているのであるが、もし元和七年に大改修を実施していたとすると、七〇年後の元禄三年(一六九〇)に銀三七貫余を費やしての解体大修理を行う必要は全くなかったのである。

前記の事柄から、元和の棟札と水野勝成下知状(『福山市史』上巻・明王院の文化財建造物)は、偽作と推定する。

明王院と常福寺の合併は、徳川家光を祀る目的で、承応元年以後開始され、壊れた阿弥陀堂を整理しその跡に庫裡を移転し、その他の書院や護摩堂等も移して寺観の充実を計ったようである。

改修が終ると、家光が四月(卯月)に没していることから、毎年卯月には盛大な供養の儀式が執り行われ、明王院が支配してきた草戸稲荷社では、今も卯祭が継続して行われている。

参考文献『備後福山藩編年史料』