備陽史探訪:67号」より

木下 和司

中世の建造物を訪ねてみると古代の建造物にはない暖かみの様なものを感じる事が多い。なぜだろうかと考えてみると、古代の建造物が木工寮(もくりょう)・修理職(すりしき)と言う古代国家官僚の手になっているのに対して、中世の建造物はその造営費用を民衆からの喜捨に仰ぎ、庶民階級である血縁を中心とした工匠集団によって造営されたことにその理由があるように思われる。

現在の明王院も中世の民衆を中心として造営された地方寺院と考えられるが、江戸時代以前には常福寺と呼ばれており、本堂の秘仏十一面観音菩薩は貞観期の造仏であるため、寺院の創建は平安時代前期まで遡ると思われる。本堂の解体修理に際して現本堂の位置に掘立柱の前身堂の存在が確認されており、おそらく草戸千軒の発展にともなって、現在の伽藍が整備されて行ったと思われる。現在の明王院本堂は、内陣基蟇股下端及び内陣北大虹梁上端に、

紀貞経代々二世悉地成就
元應三年三月十四日沙門頼秀

の墨書が発見されており、一三二一年の建立が明らかであり、中世本堂建築の優品として国宝の指定を受けている。

明王院本堂の建築様式は、一般に折衷様と呼ばれているが、古代寺院の建築様式である和様に、鎌倉時代初頭に伝来した建築様式である大仏様(東大寺の再建に用いられた建築様式)及び禅宗様(禅宗寺院の建立に用いられた建築様式)を部分的に取り入れたものである。この本堂は三つの建築様式の折衷がかなり進んだものであり、施工上及び建築意匠上に新しい工夫が認められる。例えば、日本の寺院建築は一般に建物の安定感をだすため、水平線を強調した横長のプロポーションを取るが、この本堂では垂直線を強調した縦長のプロポーションが試みられており、従来の日本建築にはみられない印象を鑑賞者に与えている。

また、中世の本堂建築を鑑賞する上での醍醐味は、その建築意匠と内部空間の構成にあるが、この本堂の内部空間、特に輪垂木天井を用いたトンネル状の斬新な外陣空間及び大仏様禅宗様の装飾細部を多用した外陣意匠には見るべきものが多い。

次に明王院本堂を造営した工匠について考えてみたい。中世の折衷様式は、主に瀬戸内海沿岸部を中心に発展した。これは、東大寺再建の最高責任者であり、大仏様の創始者でもある東大寺初代大勧進職・俊乗坊重源が勧進の拠点として、また、彼の宗旨であった念仏の道場として開いた七箇所の別所のうち、三箇所が播磨・備中・周防にあり、ここに大仏様の建築が建てられたためであろう。この関係から瀬戸内海沿岸には早くから東大寺系工匠が進出していたと考えられる。なお、播磨別所は播磨浄土寺として現存しており、その浄土堂は東大寺南大門と並ぶ大仏様の代表建築である。

また、備後浄土寺金堂は一三〇六年の建立であるが、『浄土寺文書』によれば、この時大工を勤めたのは東大寺大工八重宗遠であり、東大寺系工匠の瀬戸内沿岸進出が裏付けられる。金堂の建立には大和西大寺の僧・定証が深く係っており、金堂上棟以降、浄土寺は西大寺系の律院となっている。この関係から大和番匠である東大寺系工匠が大工を勤めた可能性が高い。残念ながら、金堂は一三二五年に焼失し、一三二七年に現存の本堂として再建されている。本堂再建時の大工は、棟札によれば藤原友国であり、この人物も東大寺系工匠である可能性が強い。明王院の前身である常福寺も浄土寺と同じく鎌倉時代末には西大寺系の律院であり、本堂建立に東大寺系工匠が関係した可能性が強いと思われる。

また、明王院本堂の空間構成・建築意匠等を見ると、地方の工匠だけではこれほどの建造物が造りえたとは思われず、浄土寺と同じく中央の工匠が関与していることは、まず間違いはない。十四世紀初頭に中央で高い技術を有した工匠集団は、奈良の東大寺及び興福寺の二つに存在した。この内、興福寺系工匠は本堂建築に関して、正面一屏に住宅風の蔀戸を用いる奈良・霊山寺本堂や香川・本山寺本堂のような建築を好み、桟唐戸を用いる奈良・長弓寺本堂や備後浄土寺本堂のような建築を好まない。この点からも明王院本堂に東大寺系工匠が関与している可能性が強いと考えられる。特に、この本堂では外陣入側隅・海老虹梁の用い方にみられるように、禅宗様の扱いが非常に巧みであるから、おそらく東大寺系工匠の内で、京都五山の一つである東福寺の創建に参画し、禅宗様の技術を学んだ一派が関係しているのではないかと考えたくなるが、資料的に裏付けられるものはない。

※東福寺仏殿大工物部為国は、東大寺再建時の東大寺大工物部為里の直系と考えられる。