八尾山城跡(府中市出口町)

山城探訪」より

田口 義之

北方より望む府中市八尾山城跡
北方より望む八尾山城跡

JR府中駅に降り立つと、北に三角形の秀麗な山を目にすることが出来る。杉原氏惣領家の居城として有名な八尾山城跡である。城跡に登る道は二つある。一つは庄の池の傍らを通り、城跡に設けられた妙見社の参道を利用する道である。同社は城跡南端に位置し、ここまで来れば山頂本丸へはあと一息だ。もう一つは、七ツ池ドライブウェーから下る道である。当城跡は、府中の北を限る標高五四〇メートルの亀ヶ岳山塊の一角をなし、南に派生した一支峰に築かれているため、主峰上のドライブウェーから南に山道を下れば城跡に至るわけだ。どちらも比較的歩きやすい道で、健脚度に応じて、登り下りを選べばよい。

本丸(仮称)は、標高三四五メートルの八尾山山頂を削平して築かれ、南北約六〇メートル、東西約二〇メートルを測る。本丸の北西は、一段下って長さ四〇メートルの細長い平坦地が伸び、その西北には幅三メートルの堀切を設けて尾根続きを断っている。ここから下は、約二〇〇メートル下って尾根の鞍部となるが、ここにも堀切を設けていたようである。本丸の南は四段に削平され、最下段が妙見社の境内である。また、東西に伸びる尾根上にも多数の曲輪が設けられ、特に東尾根上の曲輪には北側部分に土塁が見られ、北方亀ヶ岳側を意識した構造になっている。

府中市八尾山城跡略側図 1/2500 原図 尾多賀・トレース 田口
八尾山城跡略側図 1/2500 原図 尾多賀・トレース 田口

当城跡は、顕著な遺構を残しているため、古くから識者の関心を引き、各種の文献にその記述が見られる。最も古いのは、近世初頭に著されたと言われる『備後古城記』で、芦田郡出口村八尾城として、山名伊豆守清氏。宮田備後守の名が書き上げられている。

これらの中で最も詳しい記述を残しているのは、『西備名区』である。同書を開くと、芦田郡出口村八尾山城として、「当城は日呑山の南方半腹にさし出たる孤丘也 此城地に上る道八つあり 麓に流尾八ツあり 故に八尾城と言う」と、まず城名の由来を挙げ、続けて「杉原伯耆守光平 鎮守府将軍平貞盛後胤 鎌倉殿へ仕へ頼家将軍より備後守護を賜り 当城を築て住す」と、この城が杉原光平によって築城されたと記し、以下員平・忠綱・親綱・時網・光房・直光・満平・光親と続く歴代城主名を挙げている。

同書が八尾山城の築城者として挙げている杉原光平は、『尊卑分脈』を初めとする杉原氏系図が、杉原姓の元祖としている人物である。その父祖については各系図で異動があるが、最も古い『尊卑分脈』によると、平貞衡六代の孫桓平の次男にあたり、「杉原流の祖」とある。また同書によると、父桓平は「文治五年奥州合戦之時御供仕抽忠勤」とあるから、鎌倉時代前期の人物である。

光平の備後守護は別にして、鎌倉末期になると杉原氏の活躍が史上に現れて来る。嘉元三年(一三〇五)三月、幕府は、世羅郡太田庄山中郷公文の年貢抑留を究済するよう、土肥六郎と杉原右近将監に命じているが(高野山文書)、この右近将監は年代から見て七代時綱に違いない。

さらに南北朝時代に入ると、八代光房は備後守護と並んで幕府使節として活躍しており、この時代には同氏の勢力は守護に比肩するほどのものであったことが知られる。そして、将軍義満の頃になると、同氏は将軍奉公衆として現れるようになり、この時代になっても同氏は守護の下風に立つことを潔しとしなかったことが分かる。

しかし、鎌倉以来を誇った同氏も応仁の乱以降は衰退の道をたどったようである。杉原氏一族は同乱で東軍の備後守護山名是豊に属しており、是豊の没落と共に同氏の勢力も失われていった。このことを示すのが宮田備後守の八尾在城である。備後守は教言といい、西軍方の備後守護代として、是豊追放の立役者となった人物である。教言の八尾山在城は、西軍方に対する杉原氏惣領家の屈服を示すものであろう。

杉原氏惣領家は、明応二年(一四九三)の杉原伯耆守(東山時代大名外様付)を以て史上から消える。これを同氏の没落と見る向きもあるが、早計であろう。『備陽六郡志』等に、戦国期神辺城主として備南に覇を唱えた杉原理興は、元八尾山城主であったとあるから、同氏は理興の代に神辺城に移ったと考えられるのである。この考えに立てば同家は、理興の代に勢力を盛り返したことになる。

《参考文献》
新人物往来社刊「日本城郭全集」「日本城郭大系」
芸備友の会「広島県の主要城跡」
田口義之「人尾城史」もとやま十六号
杉原茂「八尾山杉原城主記」

【八尾山城跡】

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/55b9d6523c83922a9b2e48bde947130c.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/55b9d6523c83922a9b2e48bde947130c-150x100.jpg管理人中世史「山城探訪」より 田口 義之 JR府中駅に降り立つと、北に三角形の秀麗な山を目にすることが出来る。杉原氏惣領家の居城として有名な八尾山城跡である。城跡に登る道は二つある。一つは庄の池の傍らを通り、城跡に設けられた妙見社の参道を利用する道である。同社は城跡南端に位置し、ここまで来れば山頂本丸へはあと一息だ。もう一つは、七ツ池ドライブウェーから下る道である。当城跡は、府中の北を限る標高五四〇メートルの亀ヶ岳山塊の一角をなし、南に派生した一支峰に築かれているため、主峰上のドライブウェーから南に山道を下れば城跡に至るわけだ。どちらも比較的歩きやすい道で、健脚度に応じて、登り下りを選べばよい。 本丸(仮称)は、標高三四五メートルの八尾山山頂を削平して築かれ、南北約六〇メートル、東西約二〇メートルを測る。本丸の北西は、一段下って長さ四〇メートルの細長い平坦地が伸び、その西北には幅三メートルの堀切を設けて尾根続きを断っている。ここから下は、約二〇〇メートル下って尾根の鞍部となるが、ここにも堀切を設けていたようである。本丸の南は四段に削平され、最下段が妙見社の境内である。また、東西に伸びる尾根上にも多数の曲輪が設けられ、特に東尾根上の曲輪には北側部分に土塁が見られ、北方亀ヶ岳側を意識した構造になっている。 当城跡は、顕著な遺構を残しているため、古くから識者の関心を引き、各種の文献にその記述が見られる。最も古いのは、近世初頭に著されたと言われる『備後古城記』で、芦田郡出口村八尾城として、山名伊豆守清氏。宮田備後守の名が書き上げられている。 これらの中で最も詳しい記述を残しているのは、『西備名区』である。同書を開くと、芦田郡出口村八尾山城として、「当城は日呑山の南方半腹にさし出たる孤丘也 此城地に上る道八つあり 麓に流尾八ツあり 故に八尾城と言う」と、まず城名の由来を挙げ、続けて「杉原伯耆守光平 鎮守府将軍平貞盛後胤 鎌倉殿へ仕へ頼家将軍より備後守護を賜り 当城を築て住す」と、この城が杉原光平によって築城されたと記し、以下員平・忠綱・親綱・時網・光房・直光・満平・光親と続く歴代城主名を挙げている。 同書が八尾山城の築城者として挙げている杉原光平は、『尊卑分脈』を初めとする杉原氏系図が、杉原姓の元祖としている人物である。その父祖については各系図で異動があるが、最も古い『尊卑分脈』によると、平貞衡六代の孫桓平の次男にあたり、「杉原流の祖」とある。また同書によると、父桓平は「文治五年奥州合戦之時御供仕抽忠勤」とあるから、鎌倉時代前期の人物である。 光平の備後守護は別にして、鎌倉末期になると杉原氏の活躍が史上に現れて来る。嘉元三年(一三〇五)三月、幕府は、世羅郡太田庄山中郷公文の年貢抑留を究済するよう、土肥六郎と杉原右近将監に命じているが(高野山文書)、この右近将監は年代から見て七代時綱に違いない。 さらに南北朝時代に入ると、八代光房は備後守護と並んで幕府使節として活躍しており、この時代には同氏の勢力は守護に比肩するほどのものであったことが知られる。そして、将軍義満の頃になると、同氏は将軍奉公衆として現れるようになり、この時代になっても同氏は守護の下風に立つことを潔しとしなかったことが分かる。 しかし、鎌倉以来を誇った同氏も応仁の乱以降は衰退の道をたどったようである。杉原氏一族は同乱で東軍の備後守護山名是豊に属しており、是豊の没落と共に同氏の勢力も失われていった。このことを示すのが宮田備後守の八尾在城である。備後守は教言といい、西軍方の備後守護代として、是豊追放の立役者となった人物である。教言の八尾山在城は、西軍方に対する杉原氏惣領家の屈服を示すものであろう。 杉原氏惣領家は、明応二年(一四九三)の杉原伯耆守(東山時代大名外様付)を以て史上から消える。これを同氏の没落と見る向きもあるが、早計であろう。『備陽六郡志』等に、戦国期神辺城主として備南に覇を唱えた杉原理興は、元八尾山城主であったとあるから、同氏は理興の代に神辺城に移ったと考えられるのである。この考えに立てば同家は、理興の代に勢力を盛り返したことになる。 《参考文献》 新人物往来社刊「日本城郭全集」「日本城郭大系」 芸備友の会「広島県の主要城跡」 田口義之「人尾城史」もとやま十六号 杉原茂「八尾山杉原城主記」 【八尾山城跡】備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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