備陽史探訪:64号」より

出内 博都

このたび福山市千田町の八幡社が改築されることになった。この機会に正徳三年(一七一三)の改築記録「惣氏八幡社建立目録」を見ることができた。旧村千田には八幡社が二社あるが、分霊を祭って後からできたこの社を「惣氏八幡」といっているいきさつはよく分からない。

この記録を見ると、当時の村の財政運営の一端が知られるので紹介したい。ただ、本来四冊あった他の関係記録(諸入用帳、厨子寄進帳、宮木売帳、銀子割宛帳)が無いのと、帳簿の仕組みが現在とは少し違うので、字は読めても内容が分からないことが多い。わずか三〇〇年前足らず前のことが案外、分からないということを知らさせた。

以下ページをおって紹介する(①②……は「惣氏八幡社建立目録」のページを示す)。

①関係職人の名が東梁(棟梁)大工安兵衛以下大工九名、本挽き二名、や称(屋根)ふき一名が書かれている。板を引く木挽きがいることに時代性を感じさせる。屋根葺については他の「覚書」によれば、慶安四年(一六五一)以来六回の改築・修理・造築の場合、二〇〇年余りの間は「福山堂山伝助」とあるのに、このたびだけ「三兵衛」となっている。②~③「正徳三年巳七月八幡官建立目録合銀六貫六百拾五匁七分五厘諸入用辻但し与右衛門□後入銀共二」とあり、次に「内」として七項目の記述があるので、これは諸費用の内訳かと思ったら、逆に収入の内訳が記されている(以下数字は簡略化して表記する)。

松平下総守様御領主
元二三匁四分七厘
銀四九匁七分六厘
ご祝儀ニ御酒代村中へ被下相談之上預り元利出ス。
安部対馬守様御領主
銀七五匁二分
御当家ご祝儀ニ御酒代被下候右同断。
銀一四八匁七分、八幡宮の木払代。
銀一貫四一四匁三分四厘、村中出銀。
銀六三匁三分八厘、方々氏子寄進。
銀五〇匁九分、村若衆内神入用同。
〆一貫八〇二匁一分八厘。
残四貫八一三匁七分。
午之春不足。但右之銀村相談之上借銀之衆中書出シ。

とある。

このページの「〆」の金額は、七項目の合計と一致しており、「残」は残金という意味でなく、諸費用に対して収入が金が不足して、借金が残ったという意味で、これが翌年、午の年の春支払う不足分だということになる。

また、この借金の保証人として宮座を構成している衆中名を書き出すといっている(この名簿は不明)。ここでは「諸入用」とは収入金のことであり、「辻」は合計という意味である。こう考えると、但し書きの「後入共ニ」という意味がよく分かる。

次に松平氏と安部氏の交替は宝永七年(一七一〇)で、改築の年の三年前であるが、松平氏の在任中なにかの祝儀で二三匁余の銀をもらっていたらしい。それが二倍以上の四九匁余になっている。

当時の金融制度はよく分からないが、僅かの期間に二倍以上になるということは一つの不思議である。また新領主安部氏からの祝儀も「同断」とあるから元利をだしたことになる。当時どのような利殖の方法があったのか、分からないことの一つである。

④~⑤このページは銀の借用先の一覧表である。

「一銀八百目 村之安右衛門より借用」の形式で、村内六人の他、西浜屋二人、大坂や、引野村、新賀村(備中)などの個人名がでている。金額は最高八〇〇目、最低五七目九分である。また、借用とは別に「○○口入」という項目が二件あり、そのうち一件は「五一三匁五二厘 庄屋太郎兵衛口入」とあるが、「口入」というのはどんなことか、厳密なことは分からないが、代表者が小口の銀を集めて貸したものだろう。

こうして集めた銀について

〆五貫五二九匁八分 借用銀子元利 太郎兵衛よりかりかえ払へり、一銀七一六匁二分午ノ年利銀右之銀主ヘ払

と記されている。

前のページに四貫余不足とあるのに、ここで五貫余り借りかえて払い次の⑥~⑦で「〆五貫五二九匁人分午之元利」として同じ金額を記している。

結局、これだけが借金として残ったことになり、これについて

内 一銀一貫三一三匁七分九厘、午ノ年村中より出銀。
残四貫二一六匁
未之元銀
一銀八四三匁二分
未之利銀
〆五貫五九匁二分一厘
内 一、二匁五分
市村与左衛門、同善七より寄進。
一、二貫目 未之年免ニ入。
残三貫五六匁二分一厘……
太郎郎兵衛門口入。

と記載がある。そして、
⑧「一帳四冊 内(前記四冊…略)正徳三巳ノ七月 八幡宮建立時」で終わっている。

以上のいきさつをみるに、残った借金五貫五二九匁八分に対して、翌年村中より出銀して一部を払い、残り四貫余を次の年におくり、それに利がついてまた五貫余になっている。ここで結局、二貫を「免ニ入」という形で、年貢に入れて徴収したと考えられる。しかし、最終的に残った三貫五六匁一厘は、庄屋太郎兵衛口入れとなっている。この場合の口入れという行為は、どんなことか分からないが、おそらく一時立て替えしておいて、機会毎に少しずつ決済するのではなかろうか。

以上は、権力の末端機構としての、庄屋の二面性を示すものと思える。すなわち、強い庄屋の権力の裏に、強い財政力があったことを物語っている。

行政機構・金融体系の未完成な時代、しかも「米遣いの経済」といわれる時代、現金収入のもとである換金作物を栽培できる者は限られている。村の財政運営はどうしても、一部の富農層に頼らざるをえない。まして、宮座・官衆によって運営される神社など、富農階層の力の見せどころであったと思う。こうした封建的階級制に支えられた、三〇〇年の平和が日本の近世社会であったのではなかろうか。なお、この当時の金利はいくらぐらいか。

午年の場合は、元利合計五貫五二九匁八分のうち利子は七一六匁二分なので、元金は四貫七九七匁四分となり、利率は約一割五分位になる。

未年の場合は、元金四貫二一六匁一分に対し、利子は八四三匁二分なので、利率約二割になっている。

どのような金融の仕組みがあったのか、具体的なことは残念ながら分からない。このように、今日では分からない仕組みが、いかに多いかということを思い知らされた史料であった。

最後に、参考のため現在の金額にするといくら位になるか記しておく。

銀五〇匁が一両、一両が七万円とすると、総経費六貫六一五匁七分五厘は一三二・三一両で、九二六万円余りとなる。
(換算は雑誌『歴史と旅』平成七年三月号所載、河合敦論文によった)