父木野福島氏について(広島県神石高原町)

備陽史探訪:56号」より

杉原 道彦

今でも、各地に家系図を大切に保存されている家があります。史料的価値は別として、家に関わる由緒を示すものとしての価値は、今日では仏壇の位牌程度のそれしかありませんし、また必要もありません。近世においては、家の由緒を示す大切なものとして、大事にされ大いに利用されて来ました。村落も例外に漏れず、特に村役人層の間では家系図の有無で、立場を大きく左右していたようです。

芸備地方に広く分布している福島氏のなかで、神石郡三和町父本野に福島正則の後裔と伝わる家があります。正則と言えば、賎ケ獄の一番槍で有名な武人で、関ケ原の合戦の功により芸備四九万石の大名として、慶長五年(一六〇〇年)一〇月に芸備へ移封されその後、広島城無断修築を咎められ改易となった元和五年(一六一九年)までの一九年間当地に足跡を残しています。

福島氏の系譜については、広島県史に紹介されている南郷氏旧蔵の福島家系譜や備後史談に掲載されている福島家家老尾関氏の末裔某家蔵の家譜などで周知の通りですが、諸説入りまじり判然としていません。

今回、新たに江戸期を通じて父木野の村役人を勤めた屋号原谷(わんだに)福島氏、榎(えのき)福島氏に伝わる系図を紹介することで、識者の判断を仰ぎたいと思います。

ただ、一般に言われているように系図のもつ信頼性からして多くの疑問がのこりますが……。

系図によると正則の三男左兵衛大夫正森の長子、福島右近助兼平を父とし六右衛門兼勝、市右衛門兼重、久兵衛兼正の三兄弟が元和三年(一六一七年)一〇月下旬備後に下り、神石郡父木野村の宗兼原谷に居住したのが始まりとしている。三兄弟のうち、次男市右衛門は榎福島として、また三男久兵衛は芦品郡金丸の成瀧に住まい日下氏を称えています。六右衛門から数えて四代目四郎右衛門兼則の寛文三年(一六六二年)三月二九日卒までの記載で、系図は終わっています。

この兼則の弟、源左衛門信則は正保二年(一六四五年)分家し、屋号宗兼峠と称し清瀧神社の頭屋を始めたと記しているが、これについては明暦三年(一六五七年)の神社関係文書から後の神主福島伊予守家であることが、確認できる。

また、享保二年(一七一七年)に中津藩の飛地領になった前後から、父木野の庄屋や組頭を原谷福島、榎福島が勤めるようになったことを考えれば、この頃に系図が作成されたものと思われます。

一方、系図の始めを見ると、清和天皇にはじまる清和源氏で嘉吉二年(一四四二年)に愛知郡中村に住居した山名歳吉光則が、旧里福島の地名を姓にしたのが福島氏のはじまりとしています。旧里福島は、摂津国西成郡福島ノ庄と思われます。七代目が正則となり、父新右衛門道則のとき「渡世ノタメ桶屋トナリ漸光陰ヲ過ス」と記し、正則が桶屋の枠と一言う説は、この辺りに由来しているものと思われます。

正則について、

左衛門尉幼名市松一八歳ノ時山崎合戦初テ羽柴筑前守秀吉工仕其ノ旗下ナリ其後柴田勝家卜合戦ノ当時軍功有り、天正一三年ヨリ二〇万石ノ知行被下清洲ニ居城ス。賎ケ獄七本槍ノ内ニ後ハ西備三原ニ居城ス、行年六三歳ニテ卒ス紋ハ巴ニウナヌキノ紋

とし正則が一時期、三原城にいたことを示しています。

系図によれば、長男左衛門大夫正清、次男市右衛門正之、三男正森とし、正清は

幼名市四郎備後神辺ニ居城ス、知行五万石之三一歳時短気ニ依テ父正則手討ニス紋ハダキメウガ、元和元年(一六一五年)五月七日落城ス

正之は

知行一〇万石尾張ニ居城ス、徳川ノ旗下井伊掃部為討死ス元和元年二月落城ス

正森は

知行五万石作盗山居城ス幼名市左衛門四一歳ノ時慶長一九年(一六一四年)ニ落城ス、後真島郡草加部村へ引コモル、紋ハ三階ノ松

以上、慶長一九年の大坂冬の陣、元和元年の大坂夏の陣で大坂城が陥落した五月八日から判断してこの三兄弟を見ると、いずれも大坂の陣に豊臣方となっていたことが系図から読み取ることができます。

この系図以外には、正則に関する史料は父木野福島氏にありません。ただ宗兼に現在残っている江戸初期に建立されたと思われる宝篋印塔、清龍神社に名刀を奉納したことが伝わっているなど名残をとどめています。系図を拝見するにも、多少の苦労を必要とすることを考えれば、誤りを指摘することなど思うのは止めにします。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark.pnghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2017/09/cropped-mark-150x100.png管理人中世史「備陽史探訪:56号」より 杉原 道彦 今でも、各地に家系図を大切に保存されている家があります。史料的価値は別として、家に関わる由緒を示すものとしての価値は、今日では仏壇の位牌程度のそれしかありませんし、また必要もありません。近世においては、家の由緒を示す大切なものとして、大事にされ大いに利用されて来ました。村落も例外に漏れず、特に村役人層の間では家系図の有無で、立場を大きく左右していたようです。 芸備地方に広く分布している福島氏のなかで、神石郡三和町父本野に福島正則の後裔と伝わる家があります。正則と言えば、賎ケ獄の一番槍で有名な武人で、関ケ原の合戦の功により芸備四九万石の大名として、慶長五年(一六〇〇年)一〇月に芸備へ移封されその後、広島城無断修築を咎められ改易となった元和五年(一六一九年)までの一九年間当地に足跡を残しています。 福島氏の系譜については、広島県史に紹介されている南郷氏旧蔵の福島家系譜や備後史談に掲載されている福島家家老尾関氏の末裔某家蔵の家譜などで周知の通りですが、諸説入りまじり判然としていません。 今回、新たに江戸期を通じて父木野の村役人を勤めた屋号原谷(わんだに)福島氏、榎(えのき)福島氏に伝わる系図を紹介することで、識者の判断を仰ぎたいと思います。 ただ、一般に言われているように系図のもつ信頼性からして多くの疑問がのこりますが……。 系図によると正則の三男左兵衛大夫正森の長子、福島右近助兼平を父とし六右衛門兼勝、市右衛門兼重、久兵衛兼正の三兄弟が元和三年(一六一七年)一〇月下旬備後に下り、神石郡父木野村の宗兼原谷に居住したのが始まりとしている。三兄弟のうち、次男市右衛門は榎福島として、また三男久兵衛は芦品郡金丸の成瀧に住まい日下氏を称えています。六右衛門から数えて四代目四郎右衛門兼則の寛文三年(一六六二年)三月二九日卒までの記載で、系図は終わっています。 この兼則の弟、源左衛門信則は正保二年(一六四五年)分家し、屋号宗兼峠と称し清瀧神社の頭屋を始めたと記しているが、これについては明暦三年(一六五七年)の神社関係文書から後の神主福島伊予守家であることが、確認できる。 また、享保二年(一七一七年)に中津藩の飛地領になった前後から、父木野の庄屋や組頭を原谷福島、榎福島が勤めるようになったことを考えれば、この頃に系図が作成されたものと思われます。 一方、系図の始めを見ると、清和天皇にはじまる清和源氏で嘉吉二年(一四四二年)に愛知郡中村に住居した山名歳吉光則が、旧里福島の地名を姓にしたのが福島氏のはじまりとしています。旧里福島は、摂津国西成郡福島ノ庄と思われます。七代目が正則となり、父新右衛門道則のとき「渡世ノタメ桶屋トナリ漸光陰ヲ過ス」と記し、正則が桶屋の枠と一言う説は、この辺りに由来しているものと思われます。 正則について、 左衛門尉幼名市松一八歳ノ時山崎合戦初テ羽柴筑前守秀吉工仕其ノ旗下ナリ其後柴田勝家卜合戦ノ当時軍功有り、天正一三年ヨリ二〇万石ノ知行被下清洲ニ居城ス。賎ケ獄七本槍ノ内ニ後ハ西備三原ニ居城ス、行年六三歳ニテ卒ス紋ハ巴ニウナヌキノ紋 とし正則が一時期、三原城にいたことを示しています。 系図によれば、長男左衛門大夫正清、次男市右衛門正之、三男正森とし、正清は 幼名市四郎備後神辺ニ居城ス、知行五万石之三一歳時短気ニ依テ父正則手討ニス紋ハダキメウガ、元和元年(一六一五年)五月七日落城ス 正之は 知行一〇万石尾張ニ居城ス、徳川ノ旗下井伊掃部為討死ス元和元年二月落城ス 正森は 知行五万石作盗山居城ス幼名市左衛門四一歳ノ時慶長一九年(一六一四年)ニ落城ス、後真島郡草加部村へ引コモル、紋ハ三階ノ松 以上、慶長一九年の大坂冬の陣、元和元年の大坂夏の陣で大坂城が陥落した五月八日から判断してこの三兄弟を見ると、いずれも大坂の陣に豊臣方となっていたことが系図から読み取ることができます。 この系図以外には、正則に関する史料は父木野福島氏にありません。ただ宗兼に現在残っている江戸初期に建立されたと思われる宝篋印塔、清龍神社に名刀を奉納したことが伝わっているなど名残をとどめています。系図を拝見するにも、多少の苦労を必要とすることを考えれば、誤りを指摘することなど思うのは止めにします。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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