「備後古城記」について

備陽史探訪:55号」より

田口 義之

郷土史の講演会などでよく質問されることの一つに『備後古城記』の史料性があります。つまり、同書に書いてあることは事実かどうか、信用できるのだろうか、ということです。

『福山市史』上巻は、同書を「戦国時代末期にはその初稿が書かれたと思われる」として極めて高い評価を与えていますが、最近では全く信用できない書物だと酷評する人もいます。

この『備後古城記』に対する極端な二つの評価は、同書の成立の過程と、写本の多様性に原因があると思われます。

同書の成立は、近世幕藩制の確立と密接なつながりがあります。幕藩制は大閤検地によって確定された近世郷村制を基盤に成立していましたが、この郷村制は農民の”自治”を立て前としており、藩の支配は間接的なものでした。各郷村は定められた年貢を納めさえすれば、村内の行政は農民自身に一任されていたのです。

ここに『備後古城記』が成立する一因がありました。つまり、直接支配を放棄した藩側では各郷村の現状を知るために村々から報告書(差出帳)を提出させましたが、この差出帳には重要な一項目として”古城跡”の有無が記されるのが通例で、各村々の差出帳の村内古城跡の項目のみ抜き出し、一冊の書物にまとめれば、これがすなわち”某々古城記”となったわけです。

備後の場合、この古城記を戦国時代末期に逆上らせるのは少し無理があるようですが、近世前期の水野・浅野時代には原本が成立していたのは確実です。水野氏の時代の原本は残っていませんが、『水野記』(県史所収)や流布本『水野記(一代記)』などにはすでに「御領分古城主」として原『古城記』と思われるようなものが載っており、福山領以外の備後地域(芸州領)にもこのようなものが存在したと推定され、福山藩領、広島藩領のこの種の書物を合わせれば、いわゆる『備後古城記』が成立するわけです。

しかし、この原『備後古城記』は極めて簡単な内容だったと思われます。村差出帳の記載は、宝永八年(一七一一)の阿部氏が差出させたものを見ても、古城跡の有無と、名称、城主の名前の三つの事柄が記されるのみで、城主の名前もほとんどの場合は、「相知不申候」とあって、この頃には城主の伝承はほとんど忘れられていたことがわかります。

ところが、現在福山城鏡櫓文書館に収蔵されている各種の備後古城記の写本を見ると、内容は驚くほど詳細で、もしその記述が事実とすれば、備後南部の中世史は大きく書き変えられる程、豊富な情報を含んでいます。

実を申しますと、この流布本『備後古城記』の内容の詳細さこそが、同書全体の信用を落す大きな原因となっているのです。

江戸時代中期の宝永年間には既に忘れられていた城主の伝承が、幕末(多くの備後古城記の写本はこの頃以降のものです)になって突然、城主の生没年、戒名に至るまではっきりわかるでしょうか。又、なかには城主の石高が記入されたものまでありますが、村々の城主達が活躍した時代にはまだ実施されていなかった”石高制”に基づく知行高が、何故江戸の終り頃になってわかるのでしょうか。こうした幕末期以降の”書き込み”がいかに同書の信用を落しているのか、言を待ちません。

『備後古城記』を研究、利用する場合、その底本は、やはり戦前、猪原薫一、得能正通両氏によって校訂、活字化された備後叢書所収本です。同所収本は、両氏の努力によって極力後世の書き込みが排除され、出来うる限り原本に近いところまで復元されています。

備後叢書所収『備後古城記』(以下特に断わらない場合、これを指す)は取り扱いさえ間違えなければ非常に優れた史料的な価値を持つ書物です。

一例を『毛利家文書』(大日本古文書)との対比で述べてみましょう。『毛利家文書』は長州藩主毛利家に伝わった中世から近世初頭にかけての文書群ですが、この中に戦国時代中期の弘治年間(十六C半ば)の備後国人衆(いわゆる山城主達)の全貌を示す一通の興味深い文書があります。それが同文書二二五号、弘治三年(一五五七)二月二日付毛利元就他十七名連署起請文です。この文書は、当時安芸の戦国大名毛利氏の勢力下に入った備後の山城主達が毛利氏と共に軍規の厳正などを誓ったもので、署判者がぐるっと輸になって誓約した傘(からかさ)連判状として有名なものです。

この文書は正文ではなく写しか或いは案文ですが、毛利元就、隆元を間にはさんで十六名の備後の山城主達が誓約に加わっています(表の上段参照)。

彼等は全て備後の代表的な国人達ですが、『備後古城記』をひもとくと、ほとんど全て彼等と関連がある人名の記載があることに気付きます(表の下段参照)。
備後古城記

この内、姓名が全く一致するものは、楢崎信景、有地隆信の二名に過ざませんが、和智誠春(實(さね)春)、長元信(長谷部元延(のぶ))、三吉隆亮隆(資(すけ))の場合は、同一人物であることは明白でこれに含めてよいでしょう。次にその官途名が一致する者は、新見元致(能登守)、上原豊将(右衛門大夫)の二名。上原氏の場合は実名が一致しませんが、元佐(すけ)(将)は豊将の嗣子であって、新見、上原両氏の場合もほとんど一致すると言ってよいでしょう。又、杉原(木梨)隆盛の場合は、他の史料によって又左衛門尉元清とも名乗ったことが判明し、『備後古城記』の記載は誤りではないことがわかります。

このように毛利家文書二二五号に署名した備後国人衆十六名の内、半数の八名が『備後古城記』にその記載があることがわかります。残りの八名についても、名字、官途名共に不明な里資(田総氏か)を除く七名の内六名は同姓の人名の記載があり詳細に研究して行けば裏付けの取れる場合が多いと思われます。

毛利家文書の場合は一例にしか過ぎませんが、中世文書(特に戦国期のもの)に出てくる備後の国人、土豪を研究する場合、『備後古城記』がいかに有効なものであるか、これでおわかりでしょう。

但し、一つだけ注意しなければならない点があります。それは『備後古城記』の記載はその性格から全て戦国末期の、各山城最後の城主達であるということです。言い易えればそれ以外、たとえば南北朝期頃の人名等があってもそれは後世の書入れであって信用できないということです。

この点、各城主の記載は十分検討して利用する必要があるのですが、ともあれ、全て書かれたものは一応疑ってみる、という態度で史料(資料)に接すれば、そこに何らかの歴史的事実を発見できるはずです。

(参考「備後古城記とその校訂に就て」猪原薫一『備後叢書」)

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/10cef65ff6aa43fb1b31491e98d52be5.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/03/10cef65ff6aa43fb1b31491e98d52be5-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:55号」より 田口 義之 郷土史の講演会などでよく質問されることの一つに『備後古城記』の史料性があります。つまり、同書に書いてあることは事実かどうか、信用できるのだろうか、ということです。 『福山市史』上巻は、同書を「戦国時代末期にはその初稿が書かれたと思われる」として極めて高い評価を与えていますが、最近では全く信用できない書物だと酷評する人もいます。 この『備後古城記』に対する極端な二つの評価は、同書の成立の過程と、写本の多様性に原因があると思われます。 同書の成立は、近世幕藩制の確立と密接なつながりがあります。幕藩制は大閤検地によって確定された近世郷村制を基盤に成立していましたが、この郷村制は農民の”自治”を立て前としており、藩の支配は間接的なものでした。各郷村は定められた年貢を納めさえすれば、村内の行政は農民自身に一任されていたのです。 ここに『備後古城記』が成立する一因がありました。つまり、直接支配を放棄した藩側では各郷村の現状を知るために村々から報告書(差出帳)を提出させましたが、この差出帳には重要な一項目として”古城跡”の有無が記されるのが通例で、各村々の差出帳の村内古城跡の項目のみ抜き出し、一冊の書物にまとめれば、これがすなわち”某々古城記”となったわけです。 備後の場合、この古城記を戦国時代末期に逆上らせるのは少し無理があるようですが、近世前期の水野・浅野時代には原本が成立していたのは確実です。水野氏の時代の原本は残っていませんが、『水野記』(県史所収)や流布本『水野記(一代記)』などにはすでに「御領分古城主」として原『古城記』と思われるようなものが載っており、福山領以外の備後地域(芸州領)にもこのようなものが存在したと推定され、福山藩領、広島藩領のこの種の書物を合わせれば、いわゆる『備後古城記』が成立するわけです。 しかし、この原『備後古城記』は極めて簡単な内容だったと思われます。村差出帳の記載は、宝永八年(一七一一)の阿部氏が差出させたものを見ても、古城跡の有無と、名称、城主の名前の三つの事柄が記されるのみで、城主の名前もほとんどの場合は、「相知不申候」とあって、この頃には城主の伝承はほとんど忘れられていたことがわかります。 ところが、現在福山城鏡櫓文書館に収蔵されている各種の備後古城記の写本を見ると、内容は驚くほど詳細で、もしその記述が事実とすれば、備後南部の中世史は大きく書き変えられる程、豊富な情報を含んでいます。 実を申しますと、この流布本『備後古城記』の内容の詳細さこそが、同書全体の信用を落す大きな原因となっているのです。 江戸時代中期の宝永年間には既に忘れられていた城主の伝承が、幕末(多くの備後古城記の写本はこの頃以降のものです)になって突然、城主の生没年、戒名に至るまではっきりわかるでしょうか。又、なかには城主の石高が記入されたものまでありますが、村々の城主達が活躍した時代にはまだ実施されていなかった”石高制”に基づく知行高が、何故江戸の終り頃になってわかるのでしょうか。こうした幕末期以降の”書き込み”がいかに同書の信用を落しているのか、言を待ちません。 『備後古城記』を研究、利用する場合、その底本は、やはり戦前、猪原薫一、得能正通両氏によって校訂、活字化された備後叢書所収本です。同所収本は、両氏の努力によって極力後世の書き込みが排除され、出来うる限り原本に近いところまで復元されています。 備後叢書所収『備後古城記』(以下特に断わらない場合、これを指す)は取り扱いさえ間違えなければ非常に優れた史料的な価値を持つ書物です。 一例を『毛利家文書』(大日本古文書)との対比で述べてみましょう。『毛利家文書』は長州藩主毛利家に伝わった中世から近世初頭にかけての文書群ですが、この中に戦国時代中期の弘治年間(十六C半ば)の備後国人衆(いわゆる山城主達)の全貌を示す一通の興味深い文書があります。それが同文書二二五号、弘治三年(一五五七)二月二日付毛利元就他十七名連署起請文です。この文書は、当時安芸の戦国大名毛利氏の勢力下に入った備後の山城主達が毛利氏と共に軍規の厳正などを誓ったもので、署判者がぐるっと輸になって誓約した傘(からかさ)連判状として有名なものです。 この文書は正文ではなく写しか或いは案文ですが、毛利元就、隆元を間にはさんで十六名の備後の山城主達が誓約に加わっています(表の上段参照)。 彼等は全て備後の代表的な国人達ですが、『備後古城記』をひもとくと、ほとんど全て彼等と関連がある人名の記載があることに気付きます(表の下段参照)。 この内、姓名が全く一致するものは、楢崎信景、有地隆信の二名に過ざませんが、和智誠春(實(さね)春)、長元信(長谷部元延(のぶ))、三吉隆亮隆(資(すけ))の場合は、同一人物であることは明白でこれに含めてよいでしょう。次にその官途名が一致する者は、新見元致(能登守)、上原豊将(右衛門大夫)の二名。上原氏の場合は実名が一致しませんが、元佐(すけ)(将)は豊将の嗣子であって、新見、上原両氏の場合もほとんど一致すると言ってよいでしょう。又、杉原(木梨)隆盛の場合は、他の史料によって又左衛門尉元清とも名乗ったことが判明し、『備後古城記』の記載は誤りではないことがわかります。 このように毛利家文書二二五号に署名した備後国人衆十六名の内、半数の八名が『備後古城記』にその記載があることがわかります。残りの八名についても、名字、官途名共に不明な里資(田総氏か)を除く七名の内六名は同姓の人名の記載があり詳細に研究して行けば裏付けの取れる場合が多いと思われます。 毛利家文書の場合は一例にしか過ぎませんが、中世文書(特に戦国期のもの)に出てくる備後の国人、土豪を研究する場合、『備後古城記』がいかに有効なものであるか、これでおわかりでしょう。 但し、一つだけ注意しなければならない点があります。それは『備後古城記』の記載はその性格から全て戦国末期の、各山城最後の城主達であるということです。言い易えればそれ以外、たとえば南北朝期頃の人名等があってもそれは後世の書入れであって信用できないということです。 この点、各城主の記載は十分検討して利用する必要があるのですが、ともあれ、全て書かれたものは一応疑ってみる、という態度で史料(資料)に接すれば、そこに何らかの歴史的事実を発見できるはずです。 (参考「備後古城記とその校訂に就て」猪原薫一『備後叢書」)備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会中世史部会では「中世を読む」と題した定期的な勉強会を行っています。
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