備陽史探訪:54号」より

出内 博都

一、奥平中津藩備後領の成立

第1表 奥平中津藩の領域と石高
第1表 奥平中津藩の領域と石高

慶長五(一六〇〇)年、関ケ原の戦で西軍の総師となった毛利輝元が辛うじて防・周二国の大名として命脈を保ったあとへ、福島正則が芸備四九万八千石の領主として広島へ入城したが、元和五(一六一九)年六月、武家諸法度違反の名目で改易になった。

福島改易後、浅野長晟(ながあきら)が芸備八郡四二万六五〇〇石の領主として入封し、備後には譜代大名の水野勝成が十万石で大和郡山城より神辺城(のち福山城)へ入封した。然し水野家はわずか五代で元禄一一(一六九八)年五月勝岑病死のため継嗣断絶し一〇万石は収公された。その後一年余の間、曲渕(まがりぶち)市郎右衛門・山木惣左衛門・宍倉(ししくら)与兵衛の二人による代官支配が続き、それに続いて同一二年より一三年にかけて備前岡山藩に総検地を命じ、旧領一〇万石を新高一五万五二石余に打ち出した。

同一三年(一七〇〇)年このうち一〇万石の領主として出羽山形から松平忠雅を任命し残り五万石余を天領とした。このうち神石郡三七ヶ村二万一九五一石余、甲奴郡二四ヶ村一万一〇六三石余、安那郡一〇ヶ村五五八二石余が代官曲渕市郎右衛門の支配となり上下陣屋が置かれた。備中小田郡のうち二七ヶ村一万六八石余、後月郡一ヶ村一三九石余が代官山木与惣右衛門の支配下で笠岡陣屋の支配となった。

享保元(一七一六)年九月中津藩主小笠原長邑(ながさと)の夭折により豊前国上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐郡四万石を没収し、翌二(一七十七)年奥平昌成(まさしげ)を丹後宮津より中津一〇万石に補した。この一〇万石の内容として、豊前三郡一六四ヶ村六万二〇七六余石の他、不足分を筑前恰土(いと)郡二九ケ村一万七九〇八石余、備後神石・甲怒・安那郡三六ヶ村二万一五石余で補った。(表1参照)

第2表 中津藩備後領の村組制
第2表 中津藩備後領の村組制

中津藩備後飛び領は神石郡二二ヶ村一万五二九〇石余、甲怒郡一二ヶ村三九三八石余、安那郡二ヶ村七八六石余、合計三郡三六カ村二万一五石五斗五升八合で、領域の三分の二以上が、「山陰多く猪鹿猿喰荒」らすような辺鄙の山間地域で「極困難必至之村々」であった(木津和家「郡中連印願書扣」=中津藩史料叢書)、備後領の村組制は第2表の通りであり、必ずしも郡域にこだわっていない。残余の備後幕府領は三五ヶ村一万八五三六石余に減少したため、単独の代官支配を廃し、安那郡四一九二石余(八ヶ村)、神石郡一四〇二石余(五ヶ村)を笠岡陣屋付とし、甲怒郡七一二七石余(一二ヶ村)神石郡五九六二石余(一〇ヶ村)を石見大森代官支配とし、上下陣屋をその出張(でばり)陣屋とした。

中津藩備後領は現行市町村名では第3表の通りである。(中津藩史料叢書=一部修正)

第3表 中津藩備後領の村々
第3表 中津藩備後領の村々

二、中津藩飛地領支配の方式

飛地領支配について中津から藩役人を派遣して任地支配をする出張在番制と、現地の大庄屋の中から代官を任命して現地支配をさせる現地居郷制とを採用したが、藩制成立期においては現地の実情に精通した大庄屋を居代官に登用する現地居郷制を積極的に採用した。

即ち、幕領期の正徳三(一七一三)年に廃止された大庄屋および釣頭を復活させ、福山藩水野領時代から庄屋をつとめていた小畑村の村田荘右衛門知賢を、いったん大庄屋に任じ、さらに代官に抜櫂して一円支配を委任した。

村田氏は自邸を代官所に提供した。代官所跡地は現在、役場。中央公民館・福祉センター等になっている。村田氏は藤原系で左大臣魚名の後胤と伝え武田氏に仕え信州岩村田に居りしをもって村田を号した。武田滅亡後、神石郡父木野村に来り、入江大蔵正高の臣となったが後に民間に下って庄屋を勤めた。(村田庄兵衛知世)この庄兵衛の三世の孫が知賢で小畠村に別居し大庄屋、代官になった。

奥平氏は入封の翌享保三(一七一八)年領内の新田検地を行った。同年一〇月大庄屋村田知賢を中津に呼び、郡方勘定人(御山奉行仮役・格式小役人)宛行粗一三石二人扶持に取りたて、(中津藩歴史と風土第四輯)さらに旧庄屋の木津和伝兵衛を検地目代役、新免村加兵衛を検地会役につけ検地を成功させた。この検地で村田知賢は新開取米一六〇石余を打ち出したという(木津和家「当郷伝記略」)

翌四年六月村田知賢は代官役(居代官)に就任した。第4表は備後領の地方行政機構である。備後の居郷代官の中核である村田家(本村田・新村田)の代官就任は第5表6表のようになっている。初代知賢から知偏―知乗―知行と宝暦期まで養子相続の形をとっておりかならずしも単一出系の世襲ではなかった。宝暦七年知行(弾蔵)の出奔絶家により一族知公の相続や、八代知貫幼少のため別家村田知如が代官職をつとめた。知貫が成長し天明八(一七八八)年六月四日代官職に就任、ここに両村田による代官二人制が実現し以後廃藩まで続いた。

第4表 中津藩備後領の地方行政機構
第4表 中津藩備後領の地方行政機構

小畠代官所の定詰役人は、代官のほかに、郷目付・郷方(三~四名)が常勤し、ほかに大庄屋・庄屋のうち年番の役所詰がいた。「備後勤書写」に「備後定詰郷目付佐竹小弥太」とあり、現地から登用された。一八世・紀半ば以降両佐竹・河合・中山の四家がほゞ世襲していたようである。

これら現地登用役人にすべてをまかせた訳ではなく、中津本藩から役人として郡奉行・在番郡方小頭・在崎代官・在番郷目付などが派遣され、これに対して現地役人は居代官・居目付などと呼ばれていた。享保二(一七一七)年から明治四(一八七一)年までに在番小頭の氏名の確認できるものは五名、在番代官二十一名、在番御目付十一名で、在番期間も短く、常時在番していたものではないと思える。中には郡方小頭と在番代官を兼務したものもあり「小頭代官」職称として残っておる。(中津藩歴史と風土十輯付表1)

第5表 本村田(村田本家)の代官役就任
第5表 本村田(村田本家)の代官役就任
第6表 新村田家(村田別家)の代官就任
第6表 新村田家(村田別家)の代官就任

在番代官も寛政期以降は二人制になっており、天保二(一八三一)年の筑前への通達の中に、

一、郷目付御役方者 郡筋御役人并下方之曲直見聞致候事故、其身慎之方勿論之事ニ候得者、備筑御領分者御手遠之場所ニ付、別而厳重不相勤候而者下方ゆる々有之候、依而諸事古格不取失、御〆方重々可相勤(以下略)

とあり、飛び領支配は遠隔地なるが故に殊にきびしく治安管理に心掛けるように遠したものである。

第7表は備後領における農民騒動を表示したものである。一揆の形態は越訴・屯奪・不穏などであり。そのの原因は①凶作・飢饉による貧窮からの逃亡②納税定引の復活要求、年貢減免③苛政への反抗である。奥平氏は当初は現地の有力村役人を代官に登用する在地型支配方式をとっているが遠隔地支配の矛盾と幕藩体制そのものゝ矛盾に対する農民層の抵抗によってゆるやかであった出張在番制も次第にきびしくなっていった。天明期から天保期にかけて在番代官の在勤回数が増え期間が長期化していることにも示されている。三六ヶ村を大庄屋の元に三組に分け、支配の網を綿密にしているがこれについては次の機会にゆずる。

第7表 中津藩備後領の農民騒動
第7表 中津藩備後領の農民騒動

第8図 中津藩備後領の村組
第8図 中津藩備後領の村組

小畠代官所図面
小畠代官所図面

本稿はその大部分を(中津藩史料叢書)中津藩歴史と風土第十輯を参考とさせて頂きました。