1994年05月21日

土器の年代を明らかにする(広島県の編年)

備陽史探訪:60号」より

篠原 芳秀

御領遺跡発掘体験会

遺跡の発掘調査では、建物・溝・墓などの遺構と、土器・石製品・金属製品などの遺物が見つかる。しかし、これらがいつの時代のものであるかが分からないと、歴史を組み立てることは困難である。そこで、これまでにも年代を知るための様々な研究がなされてきた。中でも土器を対象としたものは、日常的に使用されるのでほとんどの遺跡から出土し、その量も多く、年代の進行と共に異なった特徴がみられることなどから、最もよく研究が行われている。個々の土器、あるいはまとまりとしての土器群の時期が明らかにできると、これらを年代順に並べ、土器の変遷を示す編年案が作成される。現在、多くの編年が提示されているので、年代の不明な土器は、この編年に照らし合わせて時期を推定することができる。ただ、すべての時期、すべての地域における土器の編年が明らかにされているわけではない。

広島県における平安時代から室町時代(九世紀から一六世紀)までの土器はどうであろうか。出土している土器は、在地産と考えられる土師器(はじき)と須恵器が大半を占めているが、地域によって様相がかなり異なっている。私見であるが、現時点における県の東南部、西南部、北部に分けた、椀・皿・杯(つき)(皿の内側が深いもの)についての概略は、つぎのようにまとめられる。

(一)東南部

福山市のザブ遺跡(津之郷町)・草戸千軒町遺跡(草戸町)、尾道市の尾道遺跡(市街地一帯)、府中市の備後国府跡(元町ほか)などに豊富な資料があり、県外で生産されてもたらされた焼成年代の明らかな土器が共伴している資料も多数あることから、すでに編年が行われている。これらを参考にすると、九世紀は須恵器が主であるが、その後はほとんどが土師器で、一〇世紀は杯、一一世紀後半から一四世紀までは椀・杯・小皿が組み合わさり、一五世紀・一六世紀は大皿・中皿・小皿のセツトになっている。また杯と皿は、回転台を使用して成形され、底部の切り離しは、一一世紀・一二世紀に回転糸切りのものが半数近くを占めるが、基本的には回転ヘラ切りである。なお椀は、年代の進行と共に小型化し、製作技法も簡素化している。

(二)西南部

広島市の権地古墳(安佐南区祇園町)・国重城跡(同区沼田町)・池田城跡(佐伯区五日市町)・東広島市の伝安芸国分尼寺跡(西条町)・鏡西谷遺跡(同)・小越窯跡(志和町)、安芸郡の畝観音免第一号古墳(海田町)、竹原市の高崎城跡(高崎町)などの様々な資料があるが、編年案を組み立てるには個々の分量が少なく、印刷物となった編年は提示されていない。資料を繋いでみると、九世紀から一二世紀前半まではほとんどが須恵器で、杯・皿から椀杯の組み合わせに変わっている。いずれも回転台による成形で、椀の一部に底部を回転糸切りしたものもあるが、基本的には回転ヘラ切りである。そして、その後はほとんどが回転台を使用して成形した土師器になり、一四世紀までは杯と小皿が組み合わさり、一五世紀・一六世紀はセツト関係が不明なものの、大皿と中皿と小皿が出土している。また底部の切り離しは、一五世紀までは基本的に回転糸切りであるが、一六世紀には回転糸切りが主体の遺跡と回転ヘラ切りが主体の遺跡がある。

(三)北部

三次市の羅漢遺跡(和知町)・加井妻城跡(粟屋町)や高田郡の山田積石塚(甲田町)などの資料があるものの断片的で土器様相の変遭は明らかにできていない。ただ、土師器の底部は回転糸切りのものが多く概ね西南部の状況と同様なものと思われる。

このように、広島県における平安時代から室町時代までの土器については、その様相がかなり明らかになっているところもあるが、まだまだ不十分である。もう少し個々の土器の詳細な年代を明らかにできれば、地域ごとの歴史の流れや同時期における地域相互の関係、まとまりとしての地域の広がりなどが考えられるようになり、ダイナミツクに歴史を構築することが可能となる。たとえば、ある特定の時期の土器様相が県下全域で明らかになると、特色ある土器群ごとに区分けすることにより、それぞれが経済的あるいは政治的な関わりを示す範囲として捉えられ、地域と地域の結びつきの程度なども知ることができる。

一口に土器の年代を明らかにするといっても、これまでに紹介されている多量の資料の再吟味と、これから新たに得られる資料を取り込みながら、県内は元より、周辺地域の資料とも比較検討しなければならない。気の遠くなるような作業ではあるが、得られる果実は大きいので、一歩一歩着実に進めたいものである。