1991年11月02日

山城と道~神石郡石屋原城跡を例に~

備陽史探訪:52号」より

田口 義之

中央が石屋原城跡

十年近く前になるが、松永の山城研究家藤井高一郎氏と神石郡三和町の山城跡を歩いたことがある。三和町というと戦国時代に備後の国衆として聞えた馬屋原一族の本拠であり、我々の目的も、固屋城や九鬼城といった同氏の山城跡の見学であった。

両城とも古来より有名な山城であって、遺構といい、規模といい、さすがに一見の価値あるものであったが、その帰り道ふとしたきっかけで寄った父本野の石屋原城跡も中世山城の一類型を示すものとして注目すべきものであった。

福山から備北の名勝帝釈峡に行くには、国道一八二号線経由の”東まわり”と、新市町から北に上る”西まわり”のコースがあるが、この西まわりのコースを通って、道が神石高原に出たところにこの城跡はある。位置は現在の行政区画で言えば神石郡三和町大字父木野字郷、かつての志摩里庄父木野村である。

城跡は三和町高蓋辺りに源を発する芦田川の支流”神谷川”が流路を東から南に変える湾曲部の、南から北に突出した尾根先端部に残り、眼下に神谷川の流れと、県道を見下すことが出来る。平地からの比高は約五十メートルである。

城跡は神谷川に臨む尾根を空堀で断ち切り、山頂の南北三十四メートル、巾十メートルの①郭を中心に、東に高さ一メートルの石垣をはさんで十五メートル×十メートルの②郭、さらに十メートル下って十メートル四方の③郭、北に十五メートル低く南北二十七メートル、巾七メートル前後の④郭を築いただけの簡単な構造であるが、頭を悩ませたのは、その立地であった。

中世の山城は普通、その眼下に可耕地を有し、国人、或は土豪層の所領経営の一環として築かれる場合が多いが、石屋原城の場合は周辺にわずかの谷田(但し、神谷川の氾濫原にあるため中世に逆上るかどうか不明)があるのみでこの範ちゅうに入らない。

そこで最近話題になっている、山城即ち関所とする見解にあてはめてみた。しかし、この説によってみても、現在の主要道路となっている谷底の道は近世以降のものといわれ、山城の年代と一致しない。中世の主要道は尾根上を走っていたのである。

とすると、石屋原城が城として機能していた時代、中世後半期の交通路を別に求めなければならないが、国土地理院の地図を眺めてもそれらしいものは見あたらない。

にもかかわらず、石屋原城の機能の解明には、この山城関所論は極めて有効である。なぜならば、城の立地、構造はいわゆる典型的な境目の城、つなぎの城で、当時の交通路を押えるために築かれた城、としか考えられないからである。

翻って考えてみると、中世の交通路の解明には、山城の研究は必要不可欠なのではあるまいか。山城に命をかけた武士達は、当時の交通路にそって山城を築いたはず。逆に言えば、山城跡をつないで行けば当時の主要道が浮びあがってくるはずである。

石屋原城の場合、江戸期の文献には城主として杉原氏、或はその家臣入江氏を挙げており、神石郡に所領を持つ杉原氏が、その本拠府中市八尾城との連絡用にこの城を築いた可能性が高い。とすれば両城の間に残る山城跡を結んで行けば、往時の”道”が現われるかも……。

石屋原城趾略測図

石屋原城趾略測図

神石郡三和町父木野

【石屋原城跡】