1990年11月17日

和智元郷と村上武吉の起請文

備陽史探訪:49号」より

堤 勝義

和智氏は広沢氏の一族で、江田氏と同族である。現在の双三郡吉舎町を拠点(南大山城)とした武将である。

永禄六年(一五六三)和智氏に招待された後で、毛利隆元(死就の長子)が急死したことにより、和智が毒殺したのではないかという嫌疑を受けた。

毛利は和智に対して不信の気持を持ち続けていたが、そく行動には移らなかった。というのは、永禄六年は、毛利は尼子の攻略に一生懸命の状態で、和智のほうには気がまわらなかったのではないかと思われる。

その後、永禄九年(一五六六)に毛利は尼子を攻略し、中国地方最大の戦国大名になった。そして、永禄十二年(一五六九)になり、和智誠春、弟元家(久豊)は厳島において毛利に誅殺された。

和智元郷(誠春の長子、毛利に許されて和智の家督をついだ)が毛利に出した起請文は誠春・元家が誅殺された前年の永禄十一年のものである。

村上武吉(城山三郎の小説に「村上武吉と秀吉」がある村上水軍の頭領)の起請文は、和智元郷の起請文の二年後の永禄十三年のものである。

和智元郷と村上武吉が毛利に出した起請文が対象的なので、比較をしてみたい。

 和智元郷起請文
        和智少輔九郎
 元就様参人々御中   元郷
一筆申上候、我等内證之儀、淵底扃存知之儀候之間、可被申上候 就夫、彌心底之儀可申上之由、扃被申聞候之間、乍恐心底不残申上候、左候間、三戸造意之儀候之處、得御意、以御光申付候、誠本望此事候、於御恩賞者、更難申盡、黍存候、乍勿論、我等於身上者、元就様ならでは奉頼方無御座候之間、御厚恩之段、到子孫申傳、存忘間敷候、少茂不存別儀、無ニ之可為覚悟候、此等之趣、輝元様へも被仰達候て可被下候、若右之趣於偽者
梵天、帝釋、四大天王、惣而日本国中六拾余州大小神祇、殊氏神明、當国厳島大明神、吉舎両社明神、悉備後国一宮大明神、各可蒙御罸者也、仍起請文如件
  永禄拾壹年  元郷(花押 血判)
    二月十六日
   元就様 参 人々御中

(毛利家文書之一、二四一号)

元郷は毛利元就に対して、心底から申し上げますと書いて、元就に対しての忠誠を誓っていて、我等身上は、元就様に頼るほかすべがなく、御厚恩は子孫に至るまで申し伝えますとあり、哀切をおびて、切々と元就に訴えている。

元郷が起請した神々は、厳島大明神(安芸一宮、毛利の崇拝する神社)、吉舎両社明神(和智氏の崇拝する神社)、備後一宮大明神(吉備津神社)があり、和智の崇拝する吉舎明神を厳島神社の下位にもってきて、毛利元就に対して配下の礼をとっている。

和智元郷は毛利との関係がせっぱつまった状況になっているのを感じて此の起請文を出したものと思われる。

 村上武吉起請文
 起請文
一、対元就輝元江申、不相替、無二馳走可申事
二、自然申隔方候者、可預御尋事右有偽者
梵天、太釋、四大天王、惣日本国中六拾余州大小神祇、別而三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神部類眷属神罸冥罸、各可罷蒙候也、仍起請文如件
         村上掃部頭
   永禄十三年九月廿日
        源武吉(花押 血判)
   毛利少輔太郎殿
   毛利右馬頭殿 参 人々御中

(毛利家文書之一、二四四号)

村上武吉は輝元・元就に対して無二の馳走を誓っている。村上武吉が起請する神々は、三島明神、八幡大菩薩(村上武吉の崇拝する神社と神)、天満大自在天神等となっているが、毛利の崇拝する厳島神社はなく、自己の崇拝する神社のみを書いている。

和智元郷のように心底から配下の礼をとってなく、今は元就・輝元に対して無二の馳走を誓うが、決してあなたの配下にはなっていないよということを村上武吉は、元就に対して示しているように思われる。

村上武吉の起請文をみた元就は、村上武吉が、今は無二の馳走を誓っているが、毛利の配下ではなく、いつ心変りがあるかもわからないと感じ、恩賞等もはずまねばならないと思っていたのではないだろうか。

和智元郷の家をつぶされてはいけないという、せっぱつまった気持と、村上武吉の村上水軍のおかれていた余裕の状況とがみてとれて興味深い。

※起請文に花押血判をしているが、此の時代はこれが形式であった。もう少し前の時代には花押のみで、血判はなかった。