4月例会 元就対晴賢 厳島合戦の跡を尋ねる

先月23日、当会の住本雄司さんのご案内で、宮島合戦の跡をたずねた。地御前から御座舟に乗り、元就が辿った航路で包みが浦に上陸、山越えに「博打尾」から晴賢本陣の塔の岡に攻め込んだ。バスの車中はいうに及ばず、登り道まであえぎながらの住本さんの解説には本当に敬服した。ただ、最初の疑問、「元就の奇襲に陶2万の大軍はなぜ雲散霧消したのか」という答えは中々返ってこなかった。記録に無いらしいのだから仕方が無いが、やはり不思議な気がした。しかし、そろそろ帰路に着こうかという頃になって、「実際もそうだったかも…」という気になった。当時のコミュニケーション未発達の時代、寝覚めの奇襲は、戦意をそいだに違いない。そして、元就はそれを見越して大胆な奇襲を仕掛けた。晴賢は馬鹿だったのではない。どうしようもなかったのだ。

管理人事務局だより先月23日、当会の住本雄司さんのご案内で、宮島合戦の跡をたずねた。地御前から御座舟に乗り、元就が辿った航路で包みが浦に上陸、山越えに「博打尾」から晴賢本陣の塔の岡に攻め込んだ。バスの車中はいうに及ばず、登り道まであえぎながらの住本さんの解説には本当に敬服した。ただ、最初の疑問、「元就の奇襲に陶2万の大軍はなぜ雲散霧消したのか」という答えは中々返ってこなかった。記録に無いらしいのだから仕方が無いが、やはり不思議な気がした。しかし、そろそろ帰路に着こうかという頃になって、「実際もそうだったかも…」という気になった。当時のコミュニケーション未発達の時代、寝覚めの奇襲は、戦意をそいだに違いない。そして、元就はそれを見越して大胆な奇襲を仕掛けた。晴賢は馬鹿だったのではない。どうしようもなかったのだ。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い