2000年12月09日

世尊寺定成筆平行政願文(備後国人杉原氏関連史料)

備陽史探訪:98号」より

木下 和司

史料紹介

図1 杉原氏・三重氏略系図

図1 杉原氏・三重氏略系図

大富山のバス例会で平田さんから会報の原稿を依頼されて何を書こうか迷っていたのですが、今回は史料の紹介をしようと思います。備後の国人杉原氏に興味のある方には興味深い史料だと思います。

その史料は鎌倉時代中期に書かれた法要の願文で、現在は国の重要文化財として東京国立博物館に保管されています。この願文の書き手は有名な三跡(さんせき)の一人、藤原行成の子孫で、鎌倉時代を代表する能書家の一人である世尊寺定成(せそんじさだしげ)です。また、願主は平行政(たいらのゆきまさ)という人物であり、行政が祖父平政平の十三回忌にあたってその菩提を弔うために作成したものです。

平行政願文は江戸時代につくられたと思われる桐製漆塗の箱に納められており、その表書には墨書で「佛語(ぶつご)軸物 平朝臣行政卿」と書かれています。蓋裏には同じく墨書で「世尊寺定成朝臣真跡」とあります。興味深いのは箱の内に納められた別紙に次の記述があることです。

 諸家大系図 四
杉原佐渡守行政 六波羅奉行
        法名金剛

なぜ杉「原」が平行政の苗字として書かれているのでしょうか。「諸家大系図」なるものは現存していないようですが、その答えは『尊卑文脈(そんぴぶんみゃく)』に見出すことができます。「尊卑文脈」で杉原氏の項を引くと、そこに佐渡守平行政の名を見つけることができます(図1)。また、行政の祖父として政平の名も認められ、政平が三重姓の祖とされる人物であることも分かります。さらに、政平の父宗平は平光平、即ち杉原光平の兄にあたる人であることから、杉原氏と三重氏は同根の一族であることが明確になります(図1)。

さて、いよいよ願文の内容を紹介しましょう。杉原氏の家系について興味深い点が二つ書かれています。第一点は三重流の家祖、即ち同根である杉原氏の家祖に関する記述です。願文の該当部分の釈文(しゃく)を以下に引用しましょう。

始祖(しそ)ヲ尋ヌレバ李部竹園(りぶちくえん)ノ遺孫ヲ恭(きょ)ウシ

つまり三重氏は自らの祖先を「李部・式部」卿に任じられた「竹園・天子の子孫」だと言っています。これは、伊勢平氏の祖である桓武天皇の子息、葛原(くずはら)親王が式部卿に任じられたことを指しています(図1)。したがって、三重氏と同根である杉原氏も正しく桓武天皇の血を引き、平維衡(たいらのこれひら)を家祖とする伊勢平氏の家系だということになります。

第二点は鎌倉時代の三重氏の立場に関する記述です。釈文を以下に挙げます。

譜弟(ふだい)(第)ヲ訪ヌレバ柳営蘭奇(りゅうえいらんき)ノ寄人ヲ示ス。久しく前鋒武備(ぜんぽうぶび)ノ名家ヲ稟(う)ケ、右筆(ゆうひつ)軍議ニ候シム

つまり、三重氏の家系は「柳営・幕府」の寄人、即ち鎌倉幕府の御家人であり、武名の高い家系であって幕府の右筆、即ち、奉行人であったと語っています。ここで三重氏と同族であった杉原氏も御家人であり、かつ奉行人であったと推測されます。この推測は鎌倉時代の訴訟文書を調べることで簡単に裏付けられます。一例をあげると、杉原光平の孫と考えられる民部八郎及び曾孫親綱には幕府奉行人であった確証があります。

ここまでに「平行政願文」から得られた知見をまとめてみると、杉原氏は桓武平氏の直系で武名の高い家系であり、鎌倉時代には幕府奉行人に任じていたことになります。

最後に、この願文の中で三重氏・杉原氏の家系がただものではなかったことを示している記述について考えてみたいと思います。問題の釈文を以下に挙げます。

斯(ここ)ニ外ニ寵愛(ちょうあい)ノ貴女有り、幽儀(ゆうぎ)(政平)ノ養君為(やしないぎみな)リ。(中略)既ニ懿氏龜卜(とうしきぼく)ノ吉祥ニ協(かな)ヒ、早(すみやか)ニ舜官(しゅんかん)龍作(りゅうさく)ノ室家二配ス

ここでは、幽儀(政平の法名)の娘の嫁ぎ先が言及されています。それは、「懿氏・家柄の良い氏族」の一員で、「舜官龍作・中納言」に補任された人物だと書かれています。ここには具体的な一族は書かれていませんが、「尊卑文脈」にはその名が書かれています。図1をもう一度見て下さい。政平の娘の横には「太政大臣(源)定實(さだざね)公妾(しょう)雅房卿母」と書かれています。つまり、政平は妾とはいえ将来、太政大臣となる資格を持っていた人物にその娘を嫁がせているのです。身分制度の喧(やかま)しかった当時のことを考えると、大したものでしょう。

では、源定實公、雅房卿とはどのような人物なのでしょうか。その答は、『公卿補任(くぎょうぶにん)』と呼ばれる書物の中にありました。『公卿補任』とは従三位(じゅさんみ)以上に叙(じょ)せられて公卿となった人達を年代順に整理したもので、現在でいえば「紳士録」にあたる書物です。『公卿補任』弘安元年(一二七八)の項に、以下の記述があります。

従三位土御門(つちみかど)源雅房十七
大納言定實卿一男。母家女房(故入道周防守平政平女)

つまり、政平の娘は土御門家という源姓の家系に女官として仕えていた時に、定實に見初められてその側室となり、雅房と名付けられる子供を設けたことになります。そして、雅房はわずか十七歳で公卿に任じられています。従三位を現代の会社組織に当てはめれば、平取ながら大会社の取締役に相当します。若干十七歳で大会社のボードメンバーに子供を送り込める土御門家とは、当時の公家社会でかなりの実力を持った家系だということになります。

現代人は、源氏の代表といえば源頼朝のイメージが強いために、すぐ清和源氏を思い浮かべます。でも公家社会で源氏といえば、その嫡流(ちゃくりゅう)は村上天皇を祖とする村上源氏です。土御門家は、村上源氏の嫡流に属する家系です。定實の曾祖父(そうそふ)は、頼朝にとって最も手強いライバルであった源通親です。通親の権勢には並び立つものがなかったために、「源博陸(はくろく)」と呼ばれました。「博陸」とは関白の異称です。関白に任じられる資格を持たない源氏の通親が一人で政治を行う姿を、世の人は「源博陸」と唱えました。また定實の祖父は、北条泰時を動かして姻戚関係にある後嵯峨天皇を擁立した土御門定通です。

つまり土御門家は、当時の公家社会の中心に位置した家系です。こんな家格の高い家系に女官とはいえ、娘を仕えさせることができる三重氏の家系は、ただものでは無かったことになります。そうすると三重氏と同根である杉原氏も単なる武稼ではなく、京都の公家社会と深い繋(つな)がりのあった家系だったと考えられます。しかし、このお話は武士の発生に関する話題と絡めて、また別の機会に譲りたいと思います。

今回紹介しました「平行政願文」は、小松茂美編『日本名跡叢刊』第四四回配本(二玄社、一九八〇年)に収められています。釈文及び訳文も同書から引用しました。興味のある方は、広島市立図書館が所蔵していますので、市民図書館に申し込めば取り寄せてもらえます。