大田庄をめぐる人々(世羅町・支配の変遷)

備陽史探訪:83号」より

田口 義之

備後国大田庄(現:世羅町
世羅台地に広がる広大な沃野は、古代より人々の憧れの地であった。その開発はよほど古い。世羅町の寺町には康徳寺古墳といって郡内最大規模を誇る古墳が存在するし、西隣の堀越には精美な切石で造られ、「石扉」まで付いた神田2号古墳が山麓に口を開けている。小さな円墳はそれこそ数知れない。

この地に中世豪族の活躍が知られるようになるのは平安末期のことだ。永万2年、平清盛の5男重衡は、当時世羅東条と呼ばれていた大田・桑原の両郷を後白河院に寄進し、「大田庄」として院庁の承認を得た。しかし、当時十才にしか過ぎなかった重衡にこんな大事が出来るはずがない。父清盛の強引な後押しがあっただろうし、在地の協力が必要である。そして、この荘園の設立に陰で大きな功績があったと考えられるのが、橘一族の存在だ。後の荘園文書には「下司」として橘光家・同兼隆の名があり、彼らこそ大田庄成立の真の立役者であったに違いない。

事情はこうだ。平安時代の後期、各地の豪族達は私財を投じて「私領」を拡大していった。しかし、「公」の土地であるからにはいかに「私領」と号しても国司の課す重税から逃れることは出来ない。国司が受領と呼ばれ「倒れるところの土をもつかめ」と言われるほど貪欲に私腹を肥やしていた時代だからなおさらだ。そこでこうした地方の豪族達は「権門」と呼ばれた中央の権力者に取り入って争って自分の私領を荘園としていった。いわゆる「寄進地系荘園」の成立だ。

「荘園」は名目的には中央の「荘園領主」のものだった。しかし彼らは都に住んで「年貢」さえ決められた通り、送られてくれば、在地の支配には文句は言わない。在地は元々の在地領主が「下司」として従来通り村々の支配をしている。同じ税金を納めるのだったら、なんやかやと注文を付けるやかまし屋の国司より、遠く離れた都にいる荘園領主の方がましだというわけだ。

大田庄が立券された当時この辺り一帯に勢力を伸ばしてきたのは平氏である。おそらく世羅郡の地方豪族であった橘氏は、平氏の家人になると同時に、自分の領地を平氏の荘園とした。平氏も平氏で後白河院の機嫌を取るため、この荘園をさらに院に寄進した。「大田庄」の成立だ。

しかし、平氏と結んだ橘氏は、このことで後には荘園から追い出されてしまう。平氏は「奢る平氏も久しからず」でやがて壇ノ浦に沈み、「鎌倉幕府」の成立となる。この幕府は相模の鎌倉に政庁を置いたように徹頭徹尾「東国」の政権であった。西国の有力豪族はやがて幕府から消される運命にあった。橘氏の場合、もと平氏の家人であっただけになおさらだ。建久7年、橘氏は幕府に対して「謀反」の咎あり、ということで下司職をあっさり取り上げられてしまうのである。

幕府は橘氏に代えて、三善氏を大田庄の「地頭」として送り込む。しかし、三善氏は元々京都の下級公家だ、根っからの坂東武者ではない。荘園領主もその頃には院から高野山に替わり、荘の中心に高野山の別院である今高野山を設け、荘園支配を強力に進めようとする。ここに始まるのが「領家と地頭のあらそい」だ。

三善氏の荘園支配は障害の連続であった。特に鎌倉時代も末になると地元で新たな勢力が興り、高野山と結んで三善氏の前に立ちはだかった。その代表が久代氏の出身と推定される「淵信」である。この人物は一種の年貢請負人で、大田庄だけでなく各地の荘園を手広く請け負い莫大な財産を蓄えていた。地頭の年貢滞納に手を焼いた高野山は、淵信を荘園の「預所」に任命し、地頭と対決させた。裁判はいつの時代でも「手間と金」がかかるものである。彼にはこのどちらもあった。

一方三善氏は情けないことに幕府の役人で金がない。こうして淵信は何年にも及ぶ裁判を戦い抜き、高野山に有利な判決を勝ち取る。得意の絶頂の淵信は大名行列を組んで、尾道街道を練り歩いた。彼の政敵は言う、「淵信の行列は女武者を数十騎先頭に立て、自らはきらびやかな数丁の輿に乗り、近づく人々を理由もなく『打擲蹂躙』した、その権勢は一国の守護も及ばぬ程で、自余の地頭御家人如きは間題にしないほど奢り極めた……」、「ばさら」者の原型をここに見ることができる。

荘園領主が力を持ったのも南北朝時代までであった。時代は本格的な「武士の世」となり、「不在地主」であった荘園領主は次第に力を失って行く。高野山も同様である。備後に入ってきた守護山名氏と結び、なんとか大田庄を支配しようとするが時代の流れには逆らえない。山名氏と「守護請」の契約を結び、年貢だけはなんとか確保しようとしたのもつかの間、守護山名氏は年貢未進を重ね、次第にその領有は有名無実のものになって行くのである。

代わって、大田庄に姿を見せるようになったのが「国人」と呼ばれる地方の実力者である。守護山名氏も本国は遠く但馬国(兵庫県北部)で、高野山の場合と変わらない。在地の支配は地元の有力者に任せるしか方法がない。山名氏の大田庄支配は室町幕府健在な時代は、それでもまだ何とかうまく行った。

しかし、「応仁の乱」が起こり、幕府の権勢が衰えると山名氏も高野山と同じ運命をたどっていった。守護は下見氏山内氏などにその「代官職」を任命する。確かに形式の上ではそうなのだが、実態は国人達の勢力争いに「守護」の権威が利用されているに過ぎない。そして、結局この争いは双三郡の吉舎から南下した和智氏が勝利を納め、ここに今高野山の背後に山城を構えた「上原和智氏」の成立となる。

上原氏はこの後、西から勢力を伸ばしてきた毛利氏と結び、世羅郡一帯を支配する有力国人にのし上がる。ここには既に「大田庄」の姿はかけらもない。すなわち、国人上原氏の登場によって「大田庄」の歴史は幕を閉じるのである。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/1998/06/45faa9a5fcdd586970a3403eb1540a67-1024x768.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/1998/06/45faa9a5fcdd586970a3403eb1540a67-150x100.jpg管理人中世史「備陽史探訪:83号」より 田口 義之 世羅台地に広がる広大な沃野は、古代より人々の憧れの地であった。その開発はよほど古い。世羅町の寺町には康徳寺古墳といって郡内最大規模を誇る古墳が存在するし、西隣の堀越には精美な切石で造られ、「石扉」まで付いた神田2号古墳が山麓に口を開けている。小さな円墳はそれこそ数知れない。 この地に中世豪族の活躍が知られるようになるのは平安末期のことだ。永万2年、平清盛の5男重衡は、当時世羅東条と呼ばれていた大田・桑原の両郷を後白河院に寄進し、「大田庄」として院庁の承認を得た。しかし、当時十才にしか過ぎなかった重衡にこんな大事が出来るはずがない。父清盛の強引な後押しがあっただろうし、在地の協力が必要である。そして、この荘園の設立に陰で大きな功績があったと考えられるのが、橘一族の存在だ。後の荘園文書には「下司」として橘光家・同兼隆の名があり、彼らこそ大田庄成立の真の立役者であったに違いない。 事情はこうだ。平安時代の後期、各地の豪族達は私財を投じて「私領」を拡大していった。しかし、「公」の土地であるからにはいかに「私領」と号しても国司の課す重税から逃れることは出来ない。国司が受領と呼ばれ「倒れるところの土をもつかめ」と言われるほど貪欲に私腹を肥やしていた時代だからなおさらだ。そこでこうした地方の豪族達は「権門」と呼ばれた中央の権力者に取り入って争って自分の私領を荘園としていった。いわゆる「寄進地系荘園」の成立だ。 「荘園」は名目的には中央の「荘園領主」のものだった。しかし彼らは都に住んで「年貢」さえ決められた通り、送られてくれば、在地の支配には文句は言わない。在地は元々の在地領主が「下司」として従来通り村々の支配をしている。同じ税金を納めるのだったら、なんやかやと注文を付けるやかまし屋の国司より、遠く離れた都にいる荘園領主の方がましだというわけだ。 大田庄が立券された当時この辺り一帯に勢力を伸ばしてきたのは平氏である。おそらく世羅郡の地方豪族であった橘氏は、平氏の家人になると同時に、自分の領地を平氏の荘園とした。平氏も平氏で後白河院の機嫌を取るため、この荘園をさらに院に寄進した。「大田庄」の成立だ。 しかし、平氏と結んだ橘氏は、このことで後には荘園から追い出されてしまう。平氏は「奢る平氏も久しからず」でやがて壇ノ浦に沈み、「鎌倉幕府」の成立となる。この幕府は相模の鎌倉に政庁を置いたように徹頭徹尾「東国」の政権であった。西国の有力豪族はやがて幕府から消される運命にあった。橘氏の場合、もと平氏の家人であっただけになおさらだ。建久7年、橘氏は幕府に対して「謀反」の咎あり、ということで下司職をあっさり取り上げられてしまうのである。 幕府は橘氏に代えて、三善氏を大田庄の「地頭」として送り込む。しかし、三善氏は元々京都の下級公家だ、根っからの坂東武者ではない。荘園領主もその頃には院から高野山に替わり、荘の中心に高野山の別院である今高野山を設け、荘園支配を強力に進めようとする。ここに始まるのが「領家と地頭のあらそい」だ。 三善氏の荘園支配は障害の連続であった。特に鎌倉時代も末になると地元で新たな勢力が興り、高野山と結んで三善氏の前に立ちはだかった。その代表が久代氏の出身と推定される「淵信」である。この人物は一種の年貢請負人で、大田庄だけでなく各地の荘園を手広く請け負い莫大な財産を蓄えていた。地頭の年貢滞納に手を焼いた高野山は、淵信を荘園の「預所」に任命し、地頭と対決させた。裁判はいつの時代でも「手間と金」がかかるものである。彼にはこのどちらもあった。 一方三善氏は情けないことに幕府の役人で金がない。こうして淵信は何年にも及ぶ裁判を戦い抜き、高野山に有利な判決を勝ち取る。得意の絶頂の淵信は大名行列を組んで、尾道街道を練り歩いた。彼の政敵は言う、「淵信の行列は女武者を数十騎先頭に立て、自らはきらびやかな数丁の輿に乗り、近づく人々を理由もなく『打擲蹂躙』した、その権勢は一国の守護も及ばぬ程で、自余の地頭御家人如きは間題にしないほど奢り極めた……」、「ばさら」者の原型をここに見ることができる。 荘園領主が力を持ったのも南北朝時代までであった。時代は本格的な「武士の世」となり、「不在地主」であった荘園領主は次第に力を失って行く。高野山も同様である。備後に入ってきた守護山名氏と結び、なんとか大田庄を支配しようとするが時代の流れには逆らえない。山名氏と「守護請」の契約を結び、年貢だけはなんとか確保しようとしたのもつかの間、守護山名氏は年貢未進を重ね、次第にその領有は有名無実のものになって行くのである。 代わって、大田庄に姿を見せるようになったのが「国人」と呼ばれる地方の実力者である。守護山名氏も本国は遠く但馬国(兵庫県北部)で、高野山の場合と変わらない。在地の支配は地元の有力者に任せるしか方法がない。山名氏の大田庄支配は室町幕府健在な時代は、それでもまだ何とかうまく行った。 しかし、「応仁の乱」が起こり、幕府の権勢が衰えると山名氏も高野山と同じ運命をたどっていった。守護は下見氏山内氏などにその「代官職」を任命する。確かに形式の上ではそうなのだが、実態は国人達の勢力争いに「守護」の権威が利用されているに過ぎない。そして、結局この争いは双三郡の吉舎から南下した和智氏が勝利を納め、ここに今高野山の背後に山城を構えた「上原和智氏」の成立となる。 上原氏はこの後、西から勢力を伸ばしてきた毛利氏と結び、世羅郡一帯を支配する有力国人にのし上がる。ここには既に「大田庄」の姿はかけらもない。すなわち、国人上原氏の登場によって「大田庄」の歴史は幕を閉じるのである。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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