2001年08月20日

備後ゆかりの歴史人物伝について(福山リビング新聞発行書籍)

備陽史探訪:102号」より

田口 義之

備後ゆかりの歴史人物伝

もう六年になるが、平成七年の暮、一冊の本を上梓した。昭和六十三年の秋から福山リビング新聞に連載した「備後ゆかりの歴史人物伝」である。

初め、この連載は一九回ほどで終る予定であった。ところが、その後「もう少し」「もう少し」ということで、結局一五〇回連載することになってしまった。

週一回の連載というと、楽なような気もするが、その実大変であった。この連載は、備後に「ゆかり」のある歴史上の人物ということで、古代から近現代にわたる備後の歴史を賑わせた人物を一四〇人ほど紹介した。

古いところでは、帝釈原人から馬取貝塚人、古代吉備穴国の人々、卑弥呼ももちろん取り上げた。この辺りまでの執筆は比較的楽であった。現地を訪ね、その上で想像をめぐらす。元々想像力だけは恵まれていたから、気楽なものであった。

時代が奈良・平安と移って行くと、「ネタ」探しに苦労した。この時代、地元に残る史料は皆無に近い。中央の文献に時折登場する備後人を関係する史跡とからめて紹介する。

奈良・平安期の備後人で一番印象に残ったのは、「正倉院文書」に登場物部多能である。多能は神石郡志麻郷戸主物部水海の「戸口」で、「正倉院文書」に確か七回ほど名を残している。最初は写経所の職員として、最後は沙弥慈数という僧侶として。興味を感じたのは、この人物が何故出家したかという問題である。もちろん純粋な信仰がそうさせたということも考えられる。ところが、この人物、写経所の職員としてはあまり良好な勤務態度ではなかった。そして、写経所より借金をし、後には職員から外されているのである。こうした人物が何故僧侶になったか。それは借金と税金を逃れるため、としか考えられない。

中世に入ると、まず、「平家物語」に出てくる備後人に注目した。中でも面白かったのは奴可入道西寂である。この人物、平家方の総大将として伊予河野氏を一度は討伐に成功しながらも、油断から備後鞆浦で河野氏の奇襲を受け、あえない最後を遂げる。驚いたのは、この人物に子孫がいたことである。新聞を読まれた方からお手紙をいただき、私が入道の子孫に当たること、先祖のことを紹介していただいて感動したこと、などが縷縷述べられていた。

事の真偽は別として、人というものには先祖があり、また子孫がいるということを実感した出来事であった。

鎌倉・室町期の人物を紹介する中で思いあたったのは「鞆」という港の重要性である。

備後の中世史を語る場合、逃すことができないのは、室町幕府の将軍足利氏と鞆の関わりである。建武三年五月、足利尊氏はこの港で光厳上皇の院宣を受け取り、朝敵の汚名を返上して天下を取った。しかし、尊氏から十五代目の将軍義昭は信長に追われ、この地に来て、毛利氏を頼って再び天下に号令しようとした。だが、この夢は秀吉の台頭によって朝露のごとく消えていった。「足利氏、鞆に興り鞆に滅ぶ」と言われた由縁である。

鞆の重要性に気がついたのは、実はこの連載が終った後、別の連載「クローズアップ備陽史」『商工福山』に取りかかってからである。

福山城の歴史的な意味を考えていくと、どうしても「鞆」に突き当たる。勝成は何故神辺城を捨て、福山城を築いたのか。この古くて新しい課題は鞆の歴史的な役割を抜きにしては語れない。鞆に関わりを持った歴史上の人物をビックアップするだけでも、一冊の書物が出来あがる。

私の歴史人物伝で紹介しただけでも、鎌倉時代の二条(『とはずかたり」の著者)から現代の宮城道雄まで十人以上に上る。また、この連載では取り上げなかったが、坂本竜馬や頼山陽など江戸から幕末にかけて鞆に足を止めなかった有名人は皆無と言っていい。

さて、私に与えられた紙面も残りわずかとなってしまった。編集氏の要望は「私の好きな歴史上の人物」である。が、このような要望にはいつも戸惑う。

浮気性かどうか、好きな人物はその時その時で違うのである。今、某紙に水野勝成の伝記を執筆中だが、勝成伝に出てくる徳川家康、織田信長、豊臣秀吉みな好きである。家康は、以前はきらいであったか、勝成との関わりで調べてみると、これほど魅力的な人物も珍しい。若い頃の家康はまことに颯爽とした青年武将であった。かれが「たぬき親父」のイメージで語られるようになったのは何故か…。ここらあたりにも歴史の面白さが転がっているようである。