2013年12月01日

聞書き「蛇円山物語」(消滅した野呂往還の集落)

備陽史探訪:175号」より

田口 義之

最近、特に関心を持って調べているのは「野呂往還」のことである。

野呂往還とは神石の坂瀬川から新市の柏まで続いていた尾根道で、かつては備後北部と南部を結んだ主要道路であった。調査を進めていくと、往還沿いに今は野山に還ってしまった小さな集落があったことが分かってきた。今回紹介するのは、調査の最中、地縁のあったご婦人から送られてきた来信である。

昨日はお世話になりました。野々倉のことは、大層中途半端なことになってしまい、残念で、申し訳なく思っております。とりあえず、駅家町のSさんからお聞きしたことを報告します。

蛇円山の廻りには野々倉のほかに、自峠・梨峠あり。白峠・梨峠ともに三軒あり白峠はすべてM姓、野々倉はK姓だったと思います。Sさんは白峠です。Sさんの夫は白峠で生まれたそうです。おじいさんは、火薬の発破などされていた(金山のほうに仕事に行っていた、とのこと)。Sさんの夫は山の掃除・木を切る仕事。百姓等をされ、徴兵検査では甲種合格で立派な体格だったとのこと。

Sさんは、かんな(新市金丸の金名か)の出身で、昭和二十三年お見合いもせずに結婚。二十四歳で嫁ぎ 次の年出産。三人の子に恵まれました。昭和三十七年ころ 最初の子が中学校の入学を機に里に出ました。

白峠に電気がついたのは昭和三十年ころかと思います。白峠を出る時、「お池を越して行け」と言われて、服部大池より南の現在の土地を選んだそうです。宅地のほか、田んぼもあった由。引っ越す時、白峠の家の柱を持って降り、いまの家を建てるとき使ったそうです。雨木まで手押し車、そこからは車を借りて運ばれたそうです。お正月十一日は「百姓始めの日」で、早朝、三時四時に起きて作業をされたそうで、官林にはマツタケがたくさん出て、採りにいったと言います。また、白峠や梨峠など、蛇円山の山頂近くの人々は、新市の下安井のほうから入った人や、言い伝えでは、神辺城からの落人、というのがあるそうです。

Sさんは九十歳近いかたです。しっかりされているように見えましたが、「もう覚えていない・・・」と再々言われて、どうも、聞き取りも難しいものだと痛感。こんな感じで、どうも取り留めなくて申し訳ありません。ひとまず、お知らせします。

蛇円山山中に残る村の跡

蛇円山山中に残る村の跡