庄屋矢田重宗(元禄検地と松平忠雅時代の嘆願)

備陽史探訪:174号」より

根岸 尚克

福山藩では水野家時代は一揆は起らなかった。阿部家時代になってからは分かっているだけで四回起きている。

享保二(一七一七)年二月。
寶暦二(一七五二)年二月。
明和七(一七七〇)年八月。
天明六(一七八六)年十二月。
天明七(一七八七)年一月。

一揆に至らなかったもの一件。所で水野家が元禄十一(一六九七)年断絶となり、賓永八(一七一一)年、改元して正徳元年に阿部家が福山に来る迄の約十年間は松平下組守忠雅が福山藩主であった。この間にも一揆は起きなかったが一揆の起る一歩手前迄になった事があった。

何故水野家断絶以後この様な情況になったのか。偏に元禄十二年から実施された検地による。天和三(一六八二)年の水野氏の検地結果は十三万三千八百石余であった。勝成の入城時より三割石高が多くなっている。国土開発の成果である。之が元禄の検地により十五万石となった。之は検地のからくりによるものであった。水野時代には六尺五寸の竿を用い三百歩(坪)を一反とした。ところが元禄の検地では六尺の竿を用いた。勿論三百歩を一反とした(福山領検地条目覚)。然も田畑の等級くらいつけも十等級だったものが「田畑位付(くらいつけ)之義大方上中下三段候」とした。その結果十四万四千石を打ち出し、更に幕府は上積し十五万とした。この結果に堪え兼ねた八尋(やひろむら)村村民は遂に一揆に及ばんとしたがそれを押えて自ら税率減免の直訴に及び成功した人が居た。以下顕彰碑により経過を辿ってみる。

地主神社脇の「矢田重宗」の顕彰碑
地主神社脇の「矢田重宗」の顕彰碑

俗名二郎三郎 諱は重宗 万治元(一六五八)年八尋村葛原屋敷在住の庄屋 矢田太郎右衛門重得の長子 一生強きを挫き弱きを助ける事を楽しむ 元禄十三年領主松平伊予守 領内検地の措置甚だ過酷 村民大に困苦の実情を見兼ね歎願哀訴するも聴かれず村民終に強訴せんとするを慰輪退散させ 自らその衝に当らむと自決を覚悟し白衣を着込み懐刀を忍ばせ検地の前途を遮り抗訴弁白一歩も譲らない其誠意情熱には官吏も大に感動 その願意を容れ后の議事にも参与させ無事検地の大事を結了 当村の税額は近郷無比の低率となった。即ち、
上竹田の反米 一石四斗
       税率六斗三升
下竹田の反米 一石三斗七升
       税率五斗六升
上御領の反米 一石四斗二升
       税率六斗四升
下御領の反米 一石五斗五升
       税率五斗
八尋は 反米 一石三斗
       税率四斗九升五合
毎年々末には暗夜私かに袋米や包み銭を投入し窮民を救助したので官も屡屡褒賞した 正徳六年二月十二日病没 村民悼慕社殿を造営
  昭和三十五年旧暦二月
(地主神社顕彰碑)

右は明治十五年八月 神官松永未賢大人と十四世葛原二郎重倫との手記の要録である。

松平伊予守は池田綱政の事である。備陽六郡志の綱宗は綱政の間違い。

庄屋矢田二郎三郎重宗について。
◎次郎三郎。寛文四(一六六四)年任。(松永家文書)
◎矢田二良三良。元禄八(一六九五)年。(二宮神社棟札)
◎次郎三郎。元禄十三(一七〇〇)年(御検地水帳)

いずれも同一人物である。矢田家は寛永八(一六三一)年に当時の庄屋次郎右ヱ門が年貢未納が増大し庄屋を免ぜられ、延宝二(一六七四)年家資分散し米三十九石をもって家屋敷山林一切を売り払い八尋村を退去した(松永家文書)とあり、一族の者が庄屋を継いだのであろう。

二宮神社境内にある「矢田重宗」を祀った地主神社
二宮神社境内にある「矢田重宗」を祀った地主神社

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/b6065585777a71fbaed3459bcd68336a.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2016/02/b6065585777a71fbaed3459bcd68336a-150x100.jpg管理人近世近代史「備陽史探訪:174号」より 根岸 尚克 福山藩では水野家時代は一揆は起らなかった。阿部家時代になってからは分かっているだけで四回起きている。 享保二(一七一七)年二月。 寶暦二(一七五二)年二月。 明和七(一七七〇)年八月。 天明六(一七八六)年十二月。 天明七(一七八七)年一月。 一揆に至らなかったもの一件。所で水野家が元禄十一(一六九七)年断絶となり、賓永八(一七一一)年、改元して正徳元年に阿部家が福山に来る迄の約十年間は松平下組守忠雅が福山藩主であった。この間にも一揆は起きなかったが一揆の起る一歩手前迄になった事があった。 何故水野家断絶以後この様な情況になったのか。偏に元禄十二年から実施された検地による。天和三(一六八二)年の水野氏の検地結果は十三万三千八百石余であった。勝成の入城時より三割石高が多くなっている。国土開発の成果である。之が元禄の検地により十五万石となった。之は検地のからくりによるものであった。水野時代には六尺五寸の竿を用い三百歩(坪)を一反とした。ところが元禄の検地では六尺の竿を用いた。勿論三百歩を一反とした(福山領検地条目覚)。然も田畑の等級くらいつけも十等級だったものが「田畑位付(くらいつけ)之義大方上中下三段候」とした。その結果十四万四千石を打ち出し、更に幕府は上積し十五万とした。この結果に堪え兼ねた八尋(やひろむら)村村民は遂に一揆に及ばんとしたがそれを押えて自ら税率減免の直訴に及び成功した人が居た。以下顕彰碑により経過を辿ってみる。 俗名二郎三郎 諱は重宗 万治元(一六五八)年八尋村葛原屋敷在住の庄屋 矢田太郎右衛門重得の長子 一生強きを挫き弱きを助ける事を楽しむ 元禄十三年領主松平伊予守 領内検地の措置甚だ過酷 村民大に困苦の実情を見兼ね歎願哀訴するも聴かれず村民終に強訴せんとするを慰輪退散させ 自らその衝に当らむと自決を覚悟し白衣を着込み懐刀を忍ばせ検地の前途を遮り抗訴弁白一歩も譲らない其誠意情熱には官吏も大に感動 その願意を容れ后の議事にも参与させ無事検地の大事を結了 当村の税額は近郷無比の低率となった。即ち、 上竹田の反米 一石四斗        税率六斗三升 下竹田の反米 一石三斗七升        税率五斗六升 上御領の反米 一石四斗二升        税率六斗四升 下御領の反米 一石五斗五升        税率五斗 八尋は 反米 一石三斗        税率四斗九升五合 毎年々末には暗夜私かに袋米や包み銭を投入し窮民を救助したので官も屡屡褒賞した 正徳六年二月十二日病没 村民悼慕社殿を造営   昭和三十五年旧暦二月 (地主神社顕彰碑) 右は明治十五年八月 神官松永未賢大人と十四世葛原二郎重倫との手記の要録である。 松平伊予守は池田綱政の事である。備陽六郡志の綱宗は綱政の間違い。 庄屋矢田二郎三郎重宗について。 ◎次郎三郎。寛文四(一六六四)年任。(松永家文書) ◎矢田二良三良。元禄八(一六九五)年。(二宮神社棟札) ◎次郎三郎。元禄十三(一七〇〇)年(御検地水帳) いずれも同一人物である。矢田家は寛永八(一六三一)年に当時の庄屋次郎右ヱ門が年貢未納が増大し庄屋を免ぜられ、延宝二(一六七四)年家資分散し米三十九石をもって家屋敷山林一切を売り払い八尋村を退去した(松永家文書)とあり、一族の者が庄屋を継いだのであろう。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
備陽史探訪の会近世近代史部会では「近世福山の歴史を学ぶ」と題した定期的な勉強会を行っています。
詳しくは以下のリンクをご覧ください。 近世福山の歴史を学ぶ