2013年04月01日

足利義昭と「料所」(毛利氏進上の長和二百貫)

備陽史探訪:171号」より

田口 義之

足利義昭という人は、ドラマなどではお公家顔をした情けない人物、と描かれることが多い。が、残された史料から見ると、義昭の実像は、そんなものではない。なかなかどうして、現実的な乱世の武将である。

福山とのかかわりで言うと、「料所」の問題がある。料所とは将軍の直轄領の事で、江戸時代の「天領」にあたる。なぜ、このことが問題になるかというと、備後に「動座」した義昭は、毛利氏に料所の進上を強く要求、実現させているからだ。

全く実力を持たなかった義昭は、それを「征夷大将軍」という権威のみで押し通した。

態と染筆候、当所(鞆)にながながと逗留候、余りに窮屈に候、然らば津郷(津之郷)然るべきの由に候の条、彼の地に至り移座したく候、きっと輝元に対し意見加うべし…

(吉川元春宛義昭御内書『吉川家文書』五〇一号)

輝元に対し、御座所の儀仰せ出され候条、この節津郷儀、ご進上候様、申し達せらるべきの段、尤も御祝着たるべく候、よって御内書をなされ候、誠に御面目の至り…

(神田元忠宛真木島昭光添状『三浦家文書』一〇七号)

いずれも、将軍たる自分に忠節を尽くし、奉公することは名誉なことで、料所の進上も当然とする高飛車なものだ。受け取った輝元や元春がどんな顔をしたか、困惑の表情が目に浮かぶようである。

義昭は将軍の権威を振りかざすだけでなく、料所の獲得には異常なほど執念を燃やした。義昭が長和(瀬戸町)を料所として要求した際の話である。義昭の使者として輝元の下を訪れた小林家孝は、「この段すます候はば罷り戻らず(要求を受け入れてくれるまでは帰らない)」などと、喧嘩腰で言い張り、遂に「長和二百貫」の進上を認めさせている(『県史』所収譜録二宮太郎右衛門)。『信長公記』によると、信長は、義昭が蓄財ばかりに熱心な「悪将軍」だと弾劾したとあるが、或いは、それは義昭の一面を正確に言い当てたものであったかもしれない。

津之郷、長和が将軍義昭の「料置であったことは、地元に残された資料からも確認できる。

江戸時代の中ごろ水野氏の遺臣によって編纂された最も古い郷土史書である『水野記』によると、津之郷の田辺寺、和光寺、艮神社は義昭から寺社領の寄進を受けたとされ、長和の福井八幡神社(瀬戸町)も天正年間、義昭が再興し、社領を寄進したと伝える。

この義昭の「料所」は、義昭が帰京した後も維持され、天正十九年(一五九一)の、『毛利家八ヶ国御配置絵図』備後国にも、沼隈郡のところに、「昌山(義昭)様領、千参百五拾石」の文字が黒々と記入されている。

福山市内にあるはずが無いとされ、「誤伝」と切り捨てられる義昭の石塔(赤坂町のイコーカ山や、熊野町常国寺の裏山に残っている)も、こうした事実を検証していくと、決して架空のものではない。料所管理のために、備後に在国した義昭の奉公衆(家臣)が、主君の菩提を弔うために建立した可能性もあるのである。