2013年02月20日

酒井山城守重澄(徳川家光小姓の末期)

備陽史探訪:170号」より

中西 タイチ

福山に伝説残す人物

徳川三代将軍・家光の側近として将来を嘱望されていたにも拘らず、道を踏み外し、蟄居先のここ福山で命を絶った酒井山城守重澄。

市内西町に龍淵寺という無住の寺があり、墓地の片隅に一際、日を引く五輪塔・重澄の墓といわれている。

酒井重澄五輪塔

酒井重澄五輪塔

重澄は三代将軍家光の寵愛を受け、堀田正盛(1608~52)とともに「一双の寵臣」と呼ばれた。ところが病気療養と称して屋敷に引きこもっているあいだに妻妾に子を産ませたとして家光に嫉妬され、勤務怠慢を理由に下総二万五千石の所領を没収、備後福山藩主水野勝成に身柄を預けられる。

その後、かつての同僚堀田正盛が家光政権の中枢にあって寛永十九年(1642)下総佐倉十一万石に封ぜられたことを聞き、悪愧にたえず、食を断ち、濃墨汁を塗り固めた筆を尖らせて喉に突き刺し自殺するという悲しい最期を遂げたという。

龍淵寺

龍淵寺