2013年02月01日

国府城について(備後国府城と八尾山城)

備陽史探訪:170号」より

田口 義之

北方より望む八尾山城跡

備後の室町時代の語る場合、避けて通れないのは「国府城」の存在である。同城が登場するのは、室町時代前期の永享九年(一四三七)のこと。同年七月、備後守護山名常熙が没すると、お定まりのお家騒動が勃発した。

ことの起りは、将軍足利義教が山名家の家督を長男の満熙を差し置いて、次男の持豊としたことである。当時、将軍義教は守護家の家督相続に介入することで将軍権力を強化しようとした。山名家もその標的にされたのである。この決定に不満を持った満熙は備後で挙兵し、国府城を奪取して立て籠もった。この挙兵自体は、間もなく持豊の兵によって鎮圧され、満熙は敗死した(「薩戒記」永享九年八月一日)。

問題は、この国府城を、現在残る城館址のどれに比定するかである。『福山市史』上巻は、これを本文の割注で「府中の八尾城と思われる」とし、これが現在の定説となっている。果たして、国府城=八尾城説は成り立つのであろうか…。確かに、現在の府中市街地周辺で八尾山城は傑出した規模を持っている。だが、今見ることが出来る八尾山城の遺構はどう見ても戦国期のもので、それが室町初期にさかのぼって存在し、国府城と呼ばれたとは到底考えられない。

この時代、本格的な山城はほとんど存在しない。南北朝時代に盛んに築城され、使われた山城は幕府権力の確立と共に一旦放棄され、しばらくは足利将軍の「花の御所」を倣った方形居館が大名国人の本拠となった。特に、京都に常住した守護大名の国許での居館は、花の御所の縮小版で、京都との繋がりを強調することが、在地での権威を高めた。そうした守護の居館は「守護所」と呼ばれ、また、「城」と称されることが多かった。播磨赤松氏の坂本城、美濃土岐氏の川手城、阿波細川氏の勝瑞城など、皆平地の方形居館である。(注)

国府城と称するからには、それは守護山名氏の守護所であったはずで、それが険阻な山城であるとは考えられない。とすると、永享九年の記録に見える国府城は、八尾山城とは別の城としなければならない。

ここで浮上するのは、府川村にあったという土居城の存在である。府川村は、芦田川の自然堤防上の村で、かつて備後国府の旧地として知られた村であった。現在、国府の遺跡は少し北方の元町付近で発掘されつつあるが、奈良・平安期の備後国府が元町付近にあったとしても、その南方にあるこの地に備後守護の居館があったとしても何ら不都合ではない。むしろ、こちらの方が、芦田川の河川交通を掌握するには好都合である。一九二五年に発刊された『芦品郡誌』の「往古府中付近見取図写」を見ると、府川村の中心には土檀のような高まりが描かれ、この土檀が土居城の跡と推定される。しかもその間を「尾道往還」が走っている。尾道は守護山名氏が府中と共にその掌握に腐心した地域である。この尾道との往還が城内を通っていることこそ、土居城が山名氏の「国府城」であることの一つの傍証となる。

土居城の城主は、中村越後守家成と伝わっている。名字から見て山名氏の有力被官で、この地を預かっていた人物であろう。

(注)岩波講座「日本通史」など。