2012年06月01日

中世石造物の地方色(備後地方の宝篋印塔を中心に)

備陽史探訪:166号」より

田口 義之

備陽史探訪の会創立35周年を目指して、中世石造物の分布調査が進んでいる。中世の石造物は、決められた形式に則って製作されているようで、そうではないものもある。

四月十五日、蔵橋純海夫先生に、世羅の万福寺跡に残る南北朝期の宝篋印塔を詳細に説明して頂いた。確かにこの時期の花商岩製の宝篋印塔は、どこでも判で押したように同じ形式のものが各地に造立されている。ところが、時代が下り、室町時代の中期になって結晶質石灰岩(小米石)で作られたものから、各地で個性的な宝篋印塔が作られ始める。

小米石製の宝篋印塔で、最古のものは、山野町大原の「白壁」銘のそれである。白壁は、宮元盛の法名であって、元盛の死去は寛正六年(一四六五)二月九日のことであるから(「福山志料」「親元日記」寛正六年二月十一日)、その造立年代は、その直後のことと推定される。この宝篋印塔にはまだそれほどの個性は見られないが、その後に造立された神辺町中条の寒水寺古墓群では、すでに明確な個性が現れている。笠部の段は普通上六段、下三段であるが、この古墓群中の宝篋印塔のそれは五段のものが見られ、基壇の格狭間の形もそれぞれで微妙な違いがある。

先日の徒歩例会で訪ねた福泉坊墓地の小米石製の宝篋印塔では、さらに塔身に仏像が陽刻されている。塔身に仏像が陽刻されている小米石製の宝篋印塔では、西城浄久寺の宮氏の墓石が有名である。その正面に二基のひときわ大きな小米石の宝篋印塔があり、向かって右が宮氏の元祖宮利吉法名明栄の石塔、その左が宮氏の九代景盛の石塔で、基壇に「前賜五品総州太守傑叟昌英大禅定門如意珠日」と景盛の法名が刻まれている。左右に並んだ宝篋印塔は皆大同小異で、塔身に錫丈を持つ地蔵尊が陽刻されている。

これらの石塔は寺が創建された永禄年間(一五五八~一五七〇)から景盛の死去した慶長七年(一六〇二)にかけて造立されたものだ(「芸藩通志」「閥閲録」二十九)。更に目を引くのは、これらの宝篋印塔には相輪部に九輪がなく、それを簡略化した、請花の上に五輪塔の空風輪を載せた異形な相輪を笠部に載せていることである。初めてこの石塔を見た時は、賓医印塔に五輪塔の空風輪を載せた、知識のない者の出鱈目な復元と考えていたのだが、今ではこれらは造立当初からのものと判断している。このように、小米石製の宝篋印塔は時代が下るごとに個性的なものが各地に作られている。そして、こうした段階を経て、江戸時代前期の「鞆の津塔」のような特定の地域にしか見られない石塔が造立されたのである。

五輪塔でも同じ傾向が見られ、室町後期になって小米石製のものが造立されるようになると、掲載した写真のような五輪塔ながらも宝篋印塔の要素を持ったものまで造られた。

今後、分布調査に際しては、このような異形な石造物を「間違った復元」等と言って排除するのではなく、素直な目で観察することが肝要である。

基壇に天文十九年(一五五〇)の銘がある(神石高原町豊松)

基壇に天文十九年(一五五〇)の銘がある(神石高原町豊松)