備後南部の金融機関の設立と変遷について(尾道編)

備陽史探訪:163号」より

岡田 宏一郎

第六十六国立銀行本店の建物
第六十六国立銀行本店の建物
(広島銀行創業百年史より)

江戸時代、広島藩の経済活動の中心は尾道であり、北前船が寄港する中継貿易地として繁栄を極めていた。海岸地には大問屋の蔵や商店がならび領国内外の諸品「米・雑穀類、干鱈、千鰯、昆布などの乾物・肥料、塩、畳表、錨、鉄器類、特産の酢、石加工品」など多用な品々が取引され金融業者や倉庫業者などの豪商が経済を動かしていた。

江戸中期頃まで経済力を誇っていた「笠岡屋・金光屋・大西屋」などの問屋豪商は力を弱め、代わって新興商人としての「灰屋橋本家・天野家」などが台頭し、尾道の経済を動かすようになってくる。

明治五年に制定された「国立銀行条例」によると

国立銀行設立者は、資本金の四割を正貨で払い込んで兌換準備とし、資本金の六割を六分利付金札引換公債として政府に抵当に入れ同額の兌換銀行券を発行する制度であった。しかしそのまま実行されたのは、わずか数行に過ぎず各銀行とも営業資金不足で行詰まってしまった。そこで明治九年に条例を改正して銀行券の正貨兌換制度を廃止し、政府貨幣をもって引換え準備とすることになったので、金禄公債などを供託して、資本金の八割まで銀行券の発行が可能となったので、国立銀行は盛んに設立されることになった

〔尾道市史 第五巻〕

その後、明治十五年に日本銀行が設立されると、国立銀行は発券業務を失い明治二十三年以降、普通銀行に転換されていった。

明治十一年、近代的な金融機関として県内最初の銀行である「第六十六国立銀行」が御調郡尾道町久保町に設立された。

この時のことを「広島銀行創業百年史」に次のように書いている。

本店建物は明治10年の創建で、有力商人の商家として建築されたものであったが、第六十六国立銀行開業に際して、これを同行が譲り受けたものといわれる。洋風の、当時としては斬新な建物で場所も港に面して、交通にも便利がよかった。

御調郡長は、開業祝文の中で、建物について

・・・・層楼華彩眺望ニ富ミ庭ニ樹木ヲ栽植シ地ハ高燥ニシア人家ニ密邇セス・・・・

と述べている。場所は市役所近くの旧廣島銀行尾道東支店(現おのみち歴史博物館)の隣接地で、ここから米場町一帯に銀行が集中していたため「銀行浜」と呼ばれていた場所である。

尾道の「第六十六国立銀行」は天野・島居・橋本家が設立中心者となり、廣島と福山に出張所を置いて明治十二年四月に営業を開始した。その後、国立銀行の設置申請は、百五十三もの銀行に達したが広島の「第百四十六国立銀行」が営業を始めた最後の銀行である。

国立銀行条例は、明治二十六年七月に新しい「銀行条例」が公布された。これは今までより簡素なため、私立の銀行が容易に設立できるようになり、また同年「貯蓄銀行条例」も公布されている。

第六十六国立銀行は、国立銀行営業満期により明治三十年七月(株)第六十六銀行に改組して「国立」の名前を廃止している。大正九年十月に、広島の「第百四十六国立銀行」(のち〔旧〕廣島銀行に商号変更)と合併して「(旧)藝備銀行」を設立した。

藝備銀行本店建物
藝備銀行本店建物

この(旧)藝備銀行には、広島地域や呉地方の小銀行が大正期に数多く合併している。

また愛媛県の「伊予三島銀行」「第百四十一銀行」(のち西条銀行に改むと、さらに「伊予農業銀行」「松山商業銀行」などが合併して出来た「愛媛銀行」の三行が合併に加わっている。藝備銀行は積極的に愛媛県への進出を目指していることが分かる。

江戸末期の天保八年に「諸品会所」が広島・藩と尾道商人の合資によって設立されていたが商品担保による貸付が主業務であった。明治に入ると「諸品商社」と改称され、商人によって運営され、明治八年に「尾道諸品合資会社」となる。会社は、天野嘉四郎、橋本吉兵衛、島居儀右衛門など五名で運営される。したがって、この会社は第六十六国立銀行より早く金融機関としての活動をしていたことになる。明治三十一年には株式会社に改組し、倉庫業兼営の銀行としての許可を得て営業している。倉庫業の営業は順調でこれらにかかわる金融も担当している。大正十一年には橋本龍一(旧藝備銀行取締役にも就任している)が社長に就任したが、倉庫業と金融機関の兼業経営は今後難しいことから銀行部門の営業を関係の深かった藝備銀行に譲渡することになり、大正十四年六月に合併した。

尾道諸品会社は倉庫業として今日に至り、営業を行っている。

尾道銀行」は明治二十八年十月、広島をしのぐ尾道の経済力に支えられて「尾道貯畜銀行」として設立された。設立者は天野・島居・橋本・福山町の大地主である藤井与一右衛門など第六十六国立銀行設立者で、同銀行の貯蓄部門を担うために開業したものである。

大正時代の尾道銀行本店
大正時代の尾道銀行本店

(おのみち歴史博物館パンフレットより)

日清戦争後の好景気で全国的に貯蓄銀行設立が高まり、広島貯蓄銀行に次いでの貯蓄銀行であった。大正十一年には「貯蓄銀行法」が制定されると普通銀行に転換し、資本金五十万円の「尾道銀行」と改称した。

尾道銀行は信用も厚く、尾道市の金融業務を受託しているが、中でも地元企業の育成に力を入れ、「チャック」(今のファスナー)製品工場の「日本開閉器商会」を尾道の対岸にある向島兼吉に工場を建設して量産化を始めた。「チャック」の名称で製品販売したが、この名前は工作機械に用いる「咬え金」のチャックから来ている。この工場が対岸の向島兼吉にあったのを子どものころ覚えている。

尾道銀行はこのベンチャービジネスを支援した。企業の営業は昭和五年頃から上向きになって行った。太平洋戦争中は海軍や陸軍被服廠のお抱え工場としてフル操業していた。

戦後は軍隊や海外への輸出先を失い、さらに新素材での製品化のおくれや設備増設による負担増と役員間の対立などで昭和四十年代に会社は整理された。

尾道貯蓄銀行から尾道銀行い商号を変更して七年あまり経った昭和五年に、世羅銀行、山岡銀行と合併して「備南銀行」を設立した。こうして他の二銀行と共に尾道銀行は解散して新銀行に移行した。

「西原銀行」(大正十五年二月第一合同銀行に合併。のち中国銀行尾道支店となる)

明治二十八年の日清戦争後、次々と紡績・鉄道・汽船・銀行などの企業が設立されていった。こうした時期に、山陽鉄道が開通して尾道に経済は活況を呈していったが対応できる金融機関としてはまだ不十分なため、尾道町十四日町の西原善平が払い込み資本金三万一千円を全額出資して「西原銀行」が合名会社として設立された。役員は西原一族とそれにつながる一族で占めていた。

西原銀行本店
十四日町にあった西原銀行本店の建物

(ふるさとの銀行物語[備後編]より)

営業は明治三十一年十四日町(長江口)で開始した。営業成績は順調に伸び10%~6%の配当が行われ、資本金も大正七年には二十万円と大幅に増資している。しかし安田財閥系の第二十二銀行尾道支店が開設され、尾道貯蓄銀行が大正十一年に普通銀行に転換して、広島合同貯蓄銀行尾道支店の開設などあり、環境がより厳しい状況となってきたことから貸出金も減少に転じていった。

大正九年の第一次世界大戦の反動不況の影響もあり、小資本の銀行での経営は難しく合併先を探していた。こうした時親交のあった大原孫三郎が頭取となっている第一合同銀行合併交渉が行われた。第一合同銀行側としても備後経済の中心となっている尾道進出を考えていたことから合併は順調に進み、大正十五年一月合併が成立した。

西原銀行本店は第一合同銀行尾道支店となる。昭和五年に第一合同銀行と山陽銀行の合併によって「中国銀行」が誕生した。これにより中国銀行尾道支店として現在も西原銀行があった場所(十四日町)で営業が行われている。

中国銀行尾道支店
西原銀行本店跡に建てられている中国銀行尾道支店

(引用及び参考文献『ふるさとの銀行物語[備後編]・[広島編]』『広島銀行創業百年史』『中国銀行五十年史』『尾道史』)

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