2011年08月01日

石井氏と鞆石井町の語源について(鞆下着と古志氏との関係)

備陽史探訪:161号」より

矢田 貞美

はじめに

旧松永市近郊における石井氏の祖、石井石見守清信の鞆下着については、足利義昭の随行者、毛利家臣および伊予国の落人などの諸説があり、真相は不明であった。本報では、石井氏の鞆下着年代とその後、新庄本郷城主古志氏と両氏の関係、古志居館などについて論及し、次に鞆の石井町の語源について論じる。

一 石井石見守清信の鞆下着年代

義昭随行説と毛利家臣説

石見守清信は京都の士で、天正年中足利義昭の鞆落行に従い、後神村に移るとあり(西備名区巻14・同19・同21、沼隈郡誌(人物誌))、 一方、七世石井熊峰(武平次)の墓碑には石見守は毛利臣とあるが(西備名区巻14、沼隈郡誌(古蹟誌))、何れも情報源は石井氏と推察される。

昭和十七年の石井会設立趣意書よると、

石井石見守清信は足利十五代将軍義昭に仕え、天正三年(一五七五)義昭備後に流寓し毛利氏に倚るに及び清信之に従い、義昭失勢後は神村に住す

とあるが、古志氏との関係には全く触れていない。しかし、石井氏系図よると、義昭との関係には触れず、

天正十三年(一五八五)七月伊予国から鞆に落行後神村に住し、縁あって古志清左衛門豊長の客分として二千石を分領す

とある。

また、「まつなが」によると、石井会事務局長役の石井吉兵衛(屋号、明治屋)を紹介し、石見守清信は第十五代将軍足利義昭の従臣で同家没落後、神村に住み着いたとある。

足利義昭は、天正四年(一五七六)二月八日鞆に落行しているが(吉川家文書489・同490、小早川家文書249、奥野)、義昭の随行者は御局(側室春日局と推定(奥野))、細川・同取次、上野秀政、畠山昭賢・同取次、眞木嶋昭光・同取次、武田信景、小林家孝、曽我晴助、六角義堯・同取次・同厩方ら(天正四年(一五七六)十月三日備後に下向(山内首藤家文書3‐5))、並びに春阿弥、高五郎次郎、勝浦貳人、千若、御厩方、柳澤元政ら二十名であり(小早川家文書27、奥野)、石井石見守清信の名前は見当たらない。毛利家臣と思われる石重兵清善から義昭随行者への贈り物の贈呈目録によると(天正四年(一五七六)十月五日付の山内首藤家文書403)、眞木島、御局(春日殿と記されるので側室春日局と比定される)の他に、三名(城信濃守、半田、三澤為虎)と氏名不詳の六名(乳母、御供衆五名)が認められるが、石見守清信の名は見当たらない。

しかし、濱本鶴賓著「備南之名勝」によると、義昭の従士に一色藤長、上野信恵、飯河信竪、小林民部、武田信貞、眞木島昭光、石井清信らとあるが、眞木島昭光以外は前記の吉川・小早川の両家文書、山内首藤家文書および奥野と一致しない。「備南之名勝」は典拠を明示していないので追証が困難であり、現時点ではこの説の確認はできない。しかも、既述のごとく吉川家文書や小早川家文書には、義昭の鞆落行八ヵ月後に義昭を追随して備後に来た六角義堯とその随行者まで記されているので、近臣者の遺漏はないものと推察される。義昭に随行したとすると、石見守清信は、氏名不詳の取次、または、御供衆などであった可能性は否定できない。

伊予国の落人説

石井氏系図によると、石見守清信が天正十三年(一五八五)七月伊予国から鞆に落行している。長宗我部元親は秀吉の四国征伐で同年七月廿五日に降伏し、その際、前年に長曽我部氏の軍門に下った伊予国の河野通直も秀吉方小早川隆景に降伏し、居城の湯築城を開城した時期(同年七月廿九日)と、石見守清信の鞆落行時期が一致する。伊予国久米郡石井郷が石井氏の本拠地とすると、河野通直の降伏時に、石見守清信は鞆に落行したものと推測される。更に、石見守の次男新左衛門康教は、

天正十三年(一五八五)与州落城の後浪人となり新居郡に住し、後神村土居殿へ来て病死す

とあり(石井氏系図)、河野氏輩下の武士であったことがわかる。石井氏は伊予国久米郡石井郷を本拠としていたが、河野氏の落城に伴い鞆へ落行したものと推察するのが妥当と考える。

なお、河野通直(妻は小早川隆景の姪)は、その後竹原で隆景の庇護を受けるが、二年後の天正十五年(一五八七)七月十四日、二十四歳で病没し、竹原の長生寺に葬られる。

二 石見守清信の子息

石井氏系図によると以下の如くである。石見守清信(土居石井初代)には五人の子息がおり、嫡男右京進綱信(土居石井第二代、神村・本郷村庄屋兼帯)は本郷村下土居辺りに居住する。次男新左衛門康教は、記述の如く、天正十三年(一五八五)与州落城後、神村土居で病死す。

三男又兵衛清次(和田石井初代)は、福島正則の廣島藩筆頭家老で、神辺城主福島丹波守治重の次男清十郎忠次を養子に迎え、忠次は右京進後の神村第二代庄屋を務め、以降、和田石井氏が第八代まで代々神村の庄屋を務めたと伝える。

四男又左衛門清忠(入江石井初代)は神村入江に居住し、五男庄右衛門重真が本郷村の上古屋石井氏初代である。

三 庄右衛門重真の古志居館入居

庄右衛門重真(清信五男)は清左衛門没一年六ケ月後に古志居館に入居しているが(本郷町誌)、これには毛利氏の了承が必要である。

庄右衛門重真の古志居館の入居を了承した、毛利氏の意図は不明であるが、一つには右京進および庄右衛門重真の兄弟に新庄の内、本郷村と神村の年貢徴収および「村の運営」などにあたらせることにあったとみられる。

上古屋母屋の主要部材は古志氏時代のもの

現存する上古屋邸の母屋の北側は改築後百五十余年経過しているが、南側の大引、柱、梁、桁、長押、棟木および鴨居などの主要部材は本郷城のものと伝える(上古屋、石井直樹氏談)。庄右衛門重真の入居年代(文禄四年(一五九四)二月)と本郷城を破却した年代(寛永十六年(一六三九))が四十五年間と乖離しているので、「古志居館」が「本郷城」と口碑・誤伝されているものと考えられる。

天正十五年(一五八七)に建造された古志居館は、部分的に修理しながら前回の改築時まで約二七〇年間耐え、主要部材はその後も使用され、築後四二〇年の現在も母屋を支えていることになる。

四 鞆の石井町の語源と石井氏

石井町の町名の語源は以下の二説に大別される。即ち、石井町の町名は、イ 将軍足利義昭の家臣石井石見守が住したので石井町と称する(備陽六郡志、西備名区、沼隈郡誌、石井氏系図、備南の名勝)、口 「石井町は井方五尺石をたたみしあり因て名つく」とあり(備陽六郡志)、しかも、地元鞆では大きな石の井戸があったので石井町と言うと、後者の説を採っている(鞆の地名あれこれ)。鞆の公所谷の裾野には、義昭の側近らの居宅があったが(歴史散歩 鞆の浦今昔)、上野・眞木嶋・六角氏ら義昭重臣の「姓」に関係した地名は残されていない。地名の語源は、殆どがこじつけであり(鞆の地名あれこれ)、個人の姓が地名になっている例は見当たらないので、鞆の「石井町」は、「石の井戸」が語源で、石井氏とは直接的関係はないものと推察される。

既述のごとく、石井氏系図、石井会設立趣意書および墓碑に見られるように、家格や家柄に繋がる事項(足利義昭随行、毛利氏臣)が紆余曲折している。更に、石井氏系図には、イ 同氏の系図とは言え、天正末の領主古志氏の謀殺事件に全く触れていないこと、口 石見守清信の五男庄右衛門は「新居館を造り住す」と記されるが、ハ 清左衛門謀殺一年半後の文禄三年(一五九四)二月古志居館に入居したとの通説(本郷町誌)と異なること、二 古志氏は毛利氏との力関係および所領の減少などから、石井氏の鞆下着年代(天正十三年(一五八五))には、新たに高禄の家臣を抱える余裕はなかったと思われること、ホ 古志家臣として日が浅くて(石見守の鞆下着から清左衛門謀殺まで約七年間)貢献が少ないにも係わらず二千石の高禄、縁不詳の客分、並びに根拠不明の分領などを誇示していること、へ これらに反して、領主古志氏の所領高を示していないことなどから、石井氏系図の鞆下着の経緯や古志氏に纏わる事項については、後世の記述と推察される。

《主要な引用文献》

1 沼隈郡誌‥人物誌と古蹟址の項、名著出版、 一九二三.
2 日本歴史学会編・奥野高広著…足利義昭、二四一‐二六八、吉川弘文館、 一九九六・
3 濱本鶴賓‥備後之名勝(補訂復刻)、九九‐一〇三、先憂会、 一九一六(一九七九).
4 下村尚三‥まつなが、中国新聞社、 一五四‐一五六、 一九八二.
5 鞆の浦歴史民俗資料調査専門委員会編刊‥鞆の地名あれこれ、二‐七、 一九八五.
6 山陽新聞社編刊‥歴史散歩 鞆の浦今昔、七四‐七七、 一九九六.