2011年02月01日

明治三十八年の今津村役場「上司往復書」の解読報告

備陽史探訪:158号」より

岡田 宏一郎

自宅近くに今津公民館がある。元今津小学校だった建物を公民館として使っているが、その三階は倉庫として松永ゲタリンピツクや地域のイベントに使う大道具・小道具が格納されている。その中にダンボール数箱が置かれていた。

かつて「今津町誌編纂委員会」が集めていた今津村役場や町役場時代の行政文書など関係書類がほこりにまみれて収められていた。町誌は作成されずにそのままになっていた。

公民館長が「整理し、処分することも考えたい」と云われたので、調べて見ると地籍図や土地台帳、教育関係の資料や病気の家族への特別配給や寺院関係に関するもの、徴兵や軍人家族の生活状況に関するもの、その他雑多な行政通達文書があったが、個人情報に関するものも多く公表出来ないものがあって、扱いも慎重にしなければならない。だがこれは重要な資料であると判断して散逸しないうちに簡単な目録だけでも、素人であるがとりあえず作成しておこうと思ったが、脳こうそくになり右の手足が動かなくなってしまい、そのままになってしまった。

今回、その資料が専門家の手によって整理されて、目録作成と文書の解読が行われその一部は活字化された。整理し活字化したのは県立文書館・文書調査員の折田恵子さんである。

行政文書の中にあった「明治三十八年今津村役場(現福山市今津町)の『上司往復書』」について、折田恵子さんによって解説説明会が今津公民館で開かれた。

集まったのは十人余りで、少ない人数だったが日露戦争に関した内容でもあり、興味ある話が聞くことが出来た。ちょうどテレビで「坂の上の雲」が放映されている時なので、タイミングもよく、その解読会の報告をします。

綴じられた上司報告書は、和紙にガリ版で印刷されたもので番号が1から1272まであり件数は494通あり表紙をつけた分厚いもので、綴じられていた。

内容については「用兵に関するもの・軍人家族遺族の生活状況に関するもの・軍人軍属に対する下賜金恩給等に関するもの・伝染病予防記事(疱瘡・ペスト・赤痢・腸窒扶斯・トラホーム等)・征露軍隊歓迎の件。」などである。

学校教育では「就学不就学や成績調査」など以外に、「慰問袋・軍用林刈取・農作物害虫駆除・学校樹栽等」が散見される。これらの文書は福山市に移管されたので紛失の恐れもなく安心である。文書は郡役所から今津村へ伝達取次ぎされたものである。

郡役所は深津・安那・沼隈郡が合併して一つの郡役所を福山町(福山市)に置いたが、明治30年5月1日に独立して郡役所を松永村に開設した。(移転は6月26日)郡役所には郡長以下15名の中央官僚が勤務していて、この郡役所が下部の町村への伝達・取次ぎをしていた。

明治三十八年日露戦役(当時は戦争でなく戦役といっていた)関係の貴重な「上司報告書」について書いてみる。

当時、沼隈郡役所には 第一課:「庶務・学務衛生・兵事・文書」第二課:「勧業・地方税・会計」があった。「上司報告書」は、郡役所からの文書に受付印を押し日付を記し、照会に対しては回答を稟議案としてつけ、順番に綴じこんだものである。往書は「兵第何号、学第何号、甲第何号、廣第何号」等で始まり、最後は 「第一課長 沼隈郡書記倉田専之助 印 各町村長御中」となっている。各町村に出すものはガリ版印刷であるが、今津村だけへの督促状などは、最後の宛名だけ墨の手書きで「今津村長 河本幹之丞殿」となっている。

具体的に見てみると

《兵第壱号》
只今左記之通り其筋ヨリ電報有之候間、為御参考郡長ノ命ニ依り此段及通知候也
 明治三十八年一月二日
  第一課長
  沼隈郡書記 倉田専之助  印
 各町村長御中
左記
 一月二日午後四時五十分郡役所着
電訳文
其筋ヨリ左ノ電報アリ一日夜大本営着電 旅順攻囲軍報告本日午後九時関東要塞地区司令官(ステッセル)将軍ヨリ開城ニ関スル書面ヲ受領セリ

このような内容である。以下省略しながら上司報告書を上げてみると

《兵第二号》
  (前段省略・・・)
彼ハ大体ニ於テ我提出セシ条件ノ下開城ヲ約シ、二日午後九時四十五分同全権委員間ニ於テ開城規約ノ本調印ヲ終レリ。談判結了卜同時ニ両軍戦闘行為ヲ停止シタリ

《兵第一〇四号》
  (前段省略・・・)
(別紙) 十日大本営着電
 今十日午前十時奉天ヲ占領セリ、数日来ノ包囲攻撃ハ全ク其目的ヲ達シ今ヤ奉天附近各所ニ於テ抗常ノ劇戦中ニシテ、捕虜並ニ兵器弾薬糧林等、諸軍需品ノ歯獲極メテ多ク、未夕調査遑アラス
 三月十日午後八時三十分発 警保局長
   廣島縣知事

《兵秘九号》
先般来米国大統領ノ媾和勧告ニ関スル見聞卜、頃来当師団在隊者ノ召集解除アル事実トニ斟酌シテ、戦局ノ終了近キニアルモノト速断シ、無稽ノ臆説ヲ流布スル者往々有之哉ニ候得共、此等大局ニ係ル真相ノ如キハ、斯ル一二ノ事実ヲ以テ軽々臆断シ得ヘキモノナラズ。・・(以下略)
   明治三十八年七月八日
       (以下略)
留守第五師団 微第一二〇参号
 明治卅八年六月卅日 留守第五師団長 真鍋 斌
  廣島県知事 山田春三殿

このように国民が講和に対して臆測を持ち、流布することに警戒していることが次のことからもわかる。

《兵第二七五号ノ内》
(・・・前文略)今ヤ購和問題日々増々世ニ伝フルニ方行戰局終了将ニ近キニアルカ如クノ無稽ノ臆測ヲ流布スル者往々有之為メニ郡民ノ敵憮心ヲ殺減シ延テ国家ノ大勢ニ影響ヲ及スカ如キコト有之候テハ誠ニ寒心スヘキ事ニシテ・・・・(以下略)
 明治卅八年七月十七日
  第一課長沼隈郡書記 倉田専之助 印
 各町村長御中
  津・山南・本・浦・田島・瀬・水ヲ除ク

(なお5月27・28日の日本海海戦勝利・9月5日ポーツマス条約に関する項目は何もなく、10月の復員や凱旋通知になっている)

《兵第三七九号》
 第五師団臨時国民歩兵第一大隊ハ今般多代帰還ヲ命セラレ本月十二日無事字品上陸廣島市堀川町附近宿営ノ旨該隊長ヨリ通報有之タル通知来候条(以下略)

《兵復第一号》
本月十七日午後一時左記部隊ノ復員ヲ命セラレタル旨通知来リタルニ付此旨通達ス
 明治三十八年十月廿日
 沼隈郡長 阿武信一 印
一 後備第二師団後備野戦砲兵連隊本部・・・・(以下二・三略)

《兵第三九四号》
海軍軍人召集解除ノ件左記ノ通リ呉鎮守府司令長官ヨリ通知有之候趣、本庁ヨリ通知来候条此段及通牒候
   明治卅八年十月廿一日
 海軍軍人ノ召集ヲ解除セシメラル
 但解除ノ時期ハ海軍大臣之を定メル

《兵秘第十一号》
凱旋軍隊船舶輸送来廿六日字品港着ヲ以テ始トシ鉄道輸送有之趣ニ付御了知置相成度此段及内報候也(以下略)

《兵第五一一号》
出征第五師団凱旋予定日割左ノ通リ其筋ヨリ通知有之候間、・・(以下略)
 當師団鐵嶺乗車概定
 師団司令部二十日、第二十一旅団十九日ョリ二十三日、第九旅団二十五日二十八日、騎兵連隊二十二日ヨリ二十三日、砲兵連隊・機関砲隊二十日ヨリ二十三日、工兵大隊二十三日、架橋縦列十六日・二十七日、弾薬大隊二十四日ヨリ二十七日・・・・(以下略)

 「征露軍隊鉄道輸送歓迎方ノ件」については、凱旋する軍隊の歓迎日割りの回数は1年間で20回を超えている。歓迎割り当ては、郡内の町村を、「甲・乙・丙・丁・戊」の五組に分け一組が丸一日担当し五日間で終っている。凱旋歓迎には紋付袴の着用か、フロッコートの着用、夜間は提灯を携帯するよう指示が出されているが、出頭時刻に遅れた不参の人もいたようで、度々歓迎要請の通達が出ている。

組み分けは、

甲:松永町・山南村・千年村・本郷村・横島村

乙:今津村・熊野村・神村・藤江村・田島村

丙:高須組合・浦崎村。百島村・金江村・田尻村

丁:西村・瀬戸村・赤坂村・山手組合・柳津村

戊:走島村・津ノ郷村・東村・草戸組合・水呑村・鞆町

となっていた。当時の様子を理解することが出来る貴重な資料なので報告しておきます。

なお、日露戦争が明治期の国民にとって強烈なインパクトを与えていたため神社に日露戰役の「戦勝記念碑」がかなり残されている。これらを神社めぐりなどの時に注意して見られると、より興味が湧いてくると思う。