神辺城と山名丈休(朝山景連と古城山の謎)

備陽史探訪:154号」より

田口 義之

南北朝時代、備後守護朝山景連によって築かれた「神辺城」が神辺宿の北の町外れ、「古城山」にあったとすれば、今まで謎とされてきた『備後古城記』の次の記述は素直に理解できる。

神辺
紅葉山城、道上城とも
 浅山備前守
  建武二年十一月二六日城を築く
 山名近江入道丈休
  嘉吉三年八月四日城築

今までこの記述は、朝山氏が築いた城を、山名氏が嘉吉三年に「再築した」と、理解されてきた。しかも、神辺の郷土史家は朝山氏以降、備後守護は歴代神辺黄葉山城に拠り、備後を支配してきたと主張した。

だが、この考えは今や過去のものとなった。以前にも述べたように、備後守護山名氏は守護所を尾道に置いたことは明らかで、神辺に守護が居たという記録は何処にも残っていない。

戦国時代、この城に拠って備後半国に号令した山名理興の存在から、山名氏がこの城を根拠に備後に号令したに違いないと、推測しただけだ。

山名近江入道丈体は実在の人物である。正しくは大橋近江守満泰と言い、備後守護山名時熙、同持豊(宗全)の守護代として活躍し、山名氏の一族であったから山名近江守と呼ばれたのであろう。丈休はおそらくその法名である。

満泰の神辺黄葉山城築城は、山城の変遷と時代の要請に叶った出来事である。「備後古城記」が伝える「嘉吉三年(一四四三)」は、将軍謀殺によって起こった「嘉吉の乱」が首謀者赤松満祐の滅亡によって、一応の終結を見た直後のことである。

「悪御所」として独裁的な権力を振るい、世の中を恐怖のどん底に陥れた将軍足利義教の「犬死」は、社会に大きな衝撃を与えた。巨大に見えた将軍権力が実は「張子の虎」にしか過ぎないことが明らかにされ、それまで将軍によって押さえつけられていた諸勢力が、一斉に鎌首をもたげはじめた。

室町幕府は、将軍と守護勢力の「連合政権」的な要素を持っていた。将軍は守護家の勢力均衡の上に立ち、山名氏や大内氏のような突出した勢力を軍事的に押さえて(明徳・応永の乱だ)権力を維持してきた。その将軍が守護によって殺され、その守護もまた幕府軍となった守護勢力によって滅ぼされたのだ。

いわば、それまでかろうじて維持されてきた社会の秩序がこの戦乱によって根底から揺り動かされたのである。社会不安が一気に高まった。

ここに全国的に山城が再び築かれるようになった原因があった。備後守護、或いは守護代も同様であろう。今まで平地にあった守護所や古城山のような低い丘の上の城では、一朝有事には役に立たない。こうした状況の中で「神辺城」が黄葉山の山頂に築かれたのである。

その城の様子は今ではわからない。おそらくは山頂を段々に削平し「曲輪」を築いただけの簡単な構造だったろう。だが、防御力は、それまでの古城山の城より格段に勝っていたことだけは間違いない。

https://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/03-31.jpghttps://bingo-history.net/wp-content/uploads/2012/04/03-31-150x140.jpg管理人中世史「備陽史探訪:154号」より 田口 義之 南北朝時代、備後守護朝山景連によって築かれた「神辺城」が神辺宿の北の町外れ、「古城山」にあったとすれば、今まで謎とされてきた『備後古城記』の次の記述は素直に理解できる。 神辺 紅葉山城、道上城とも  浅山備前守   建武二年十一月二六日城を築く  山名近江入道丈休   嘉吉三年八月四日城築 今までこの記述は、朝山氏が築いた城を、山名氏が嘉吉三年に「再築した」と、理解されてきた。しかも、神辺の郷土史家は朝山氏以降、備後守護は歴代神辺黄葉山城に拠り、備後を支配してきたと主張した。 だが、この考えは今や過去のものとなった。以前にも述べたように、備後守護山名氏は守護所を尾道に置いたことは明らかで、神辺に守護が居たという記録は何処にも残っていない。 戦国時代、この城に拠って備後半国に号令した山名理興の存在から、山名氏がこの城を根拠に備後に号令したに違いないと、推測しただけだ。 山名近江入道丈体は実在の人物である。正しくは大橋近江守満泰と言い、備後守護山名時熙、同持豊(宗全)の守護代として活躍し、山名氏の一族であったから山名近江守と呼ばれたのであろう。丈休はおそらくその法名である。 満泰の神辺黄葉山城築城は、山城の変遷と時代の要請に叶った出来事である。「備後古城記」が伝える「嘉吉三年(一四四三)」は、将軍謀殺によって起こった「嘉吉の乱」が首謀者赤松満祐の滅亡によって、一応の終結を見た直後のことである。 「悪御所」として独裁的な権力を振るい、世の中を恐怖のどん底に陥れた将軍足利義教の「犬死」は、社会に大きな衝撃を与えた。巨大に見えた将軍権力が実は「張子の虎」にしか過ぎないことが明らかにされ、それまで将軍によって押さえつけられていた諸勢力が、一斉に鎌首をもたげはじめた。 室町幕府は、将軍と守護勢力の「連合政権」的な要素を持っていた。将軍は守護家の勢力均衡の上に立ち、山名氏や大内氏のような突出した勢力を軍事的に押さえて(明徳・応永の乱だ)権力を維持してきた。その将軍が守護によって殺され、その守護もまた幕府軍となった守護勢力によって滅ぼされたのだ。 いわば、それまでかろうじて維持されてきた社会の秩序がこの戦乱によって根底から揺り動かされたのである。社会不安が一気に高まった。 ここに全国的に山城が再び築かれるようになった原因があった。備後守護、或いは守護代も同様であろう。今まで平地にあった守護所や古城山のような低い丘の上の城では、一朝有事には役に立たない。こうした状況の中で「神辺城」が黄葉山の山頂に築かれたのである。 その城の様子は今ではわからない。おそらくは山頂を段々に削平し「曲輪」を築いただけの簡単な構造だったろう。だが、防御力は、それまでの古城山の城より格段に勝っていたことだけは間違いない。備後地方(広島県福山市)を中心に地域の歴史を研究する歴史愛好の集い
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