2009年08月07日

遍照寺山城便り(3)(神辺町中条城郭測量調査)

備陽史探訪:149号」より

藤波 平次郎

東南から望む遍照寺山城跡

東南から望む遍照寺山城跡

六月二十八日、遍照寺山城跡前期の測量調査は終った。曇り勝ちとの予報がはずれ朝から強い夏の陽光が射し調査の否応なしの終りを感じた。春日の高橋敏志さんに同行を頼まれたので二人で福山駅北口に向けて車を走らせた。行くと既に坂本さん親子が、といっても婿の寺岡氏と待っておられて「今日はこれだけか」と四人は顔を見合わせたものである。

季節は既に六月も終ろうとしている、これが夏本番ともなれば山へ入り辛いのは当然のことであるが作業も測量だけとなって人数も多く必要としなくなってきている。遍照寺山門に着くと藤井事務局長は既に到着していて、間もなくヒマラヤ帰りの小林浩二さんがにこやかに車で到着、「少し早く帰るよ」と断られたが万能の小林氏に参加して貰えたのは幸いであった。これで六人、三人ずつ分かれて平板とレベルにかかれると寺岡、小林氏と私は遅れているレベルを担当、勇躍山を登った。

この度は会報に城跡の概要図を掲載して貰うので少しは説明し易くなると思うがA郭群の残った下の部分のレベル測量を私たちが、坂本、藤井、高橋組はB郭群の下部の平板測量にと、途中の基地に荷物を下して早速作業にかかった。

それにしても暑かった!汗かきの私は山の中を歩くだけで大汗をかきながら寺岡氏の指示どおリハコ尺を持って移動する。小林氏は測量の目安となる杭探しと枝打ちなど手慣れたもので、寺岡氏と併せての作業の速さは見事なものである。本号の写真と図面を見られればこれまで参加された人ならそれぞれに活躍された場面を思い起こされることと思うが、本当によくぞここまでやつてきたものだとつくづく思う。総括責任者としては十分な計画をたてずに今日に至ったことを強く反省する。

当初、五月に測量を終り秋には現地説明会や遍照寺山城跡によせる講演会など予定していたが次々現れてくる郭と広さに戸惑い、感嘆しつつも協力してくれる会員の皆さんに対して心苦しさがあった。「寒い!」と言っていた季節もこうして大汗をかく時期になって動員された人達も一八三名に達し、日数も二十三日を費やした。「おかげさまで」と言えば軽々しくて皆さんに申し訳ないようだが、各郭に名称を付け、他に竪堀、堀切、虎口と立て札を建てれば立派な城跡として公開できるようにはなったと思う。

こうして始めた調査測量も誰に頼まれたものでもなく自分たち、城郭研究部会を中心に楽しみながら勉強をしようとの意欲から始まったこと、そして少しでも役立とう協力しようと他から参加して下さった人々、その人たちとの交流を振り返ると本当に感極まる時がある。この山城跡はある時期(昭和の初めと言われるが)石切り場として利用されていて多数の切り石が山頂に残されたり、途中に転がっていたりする。坂本氏曰く、この中条辺りの川に点在する砂防堰堤に使用されたものだろうと言うことである。事実、麓の安光の部落にその堰堤がある。また、山のあちこちに重機の轍跡があってその通った道らしきものがあって調査の妨げになっているが、この事実も要れて測量して、後世にこの山城の痕跡を記録していこうとしている。

さて、再開の予定だがこれ以降、レベル測量に協力していただいた本会の篠原氏と寺岡氏の記録の擦り合わせをして、C郭群とD郭群野へ平板測量とレベル測量の十月修了の予定をたてることが私の仕事となる。また、今私の手元にある中条公民館作成の「中条の旧地名」を拡げるとこの城の周辺に「土井」「馬場」「市場」「的場」「鍛冶屋」「堀」などが残り、城主と思われる人との関わる寺社など、聞き込みもしなければならず当分は中条通いを続けるつもりである。春から、問い合わせ、伐採、測量の体験等苦しい時もあったが休憩の時の楽しい語らいはそれらを忘れるのに充分であったし、誰かが言っていたようにこれまで何の事故もなく、それぞれの思いを残して夏休みに入った。

今日前期の終了に当たった午後三時、牧平さんが持ってきて下さった冷たいタオル、飲み物は六人の体や心に沁み入るものであった。帰りの車中には疲れはなく、次の展開に思いを馳せる自分がいた。また、春からご協力下さった皆様に部会を代表して心からお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。八月には田口会長の「遍照寺山城の謎に迫る」講演会もあり、部会一同努力を続けますが今後一層のご支援をお願い致します。

遍照寺山城跡-平板測量現状図

遍照寺山城跡-平板測量現状図