2009年08月07日

水呑町の洗谷・浜貝塚(縄文早期の可能性はあるか?)

備陽史探訪:149号」より

小林 定市

1、貝塚の説明看板新設計画

私が住んでいる福山市水呑町には、縄文貝塚遺跡の洗谷貝塚と浜貝塚がある。兩貝塚の東側は現在住宅地となり海から遠ざかっているが、江戸時代までは瀬戸内海と接する海岸線に立地していた。

兩貝塚は昭和八年七月、水呑小学校の橘高武夫先生によって同一時期に発見された。最初の発掘調査は同月の三十日と三十一日、兩貝塚が同日に実施された珍しい貝塚である。

発掘の成果は、兩貝塚から出土した土器が縄文後期と晩期が多かったことから縄文後期の貝塚と認定されてきた。貝塚の発見が他の遺跡と比較して遅かったためか、話題となる新発見や特徴も見当たらず、文化遺産としての評価が低かったためか史跡としての指定も行われず、説明看板も設置されるに至らなかった。

説明看板の無いことを打開しようと、水呑町の民俗保存部会では本年度に看板の予算を計上し秋の文化祭までに完成させるよう計画された。そうした経緯から私に対して、貝塚関係記録の収集と分散遺物の調査並びに資料作製の支援要請があった。

2、『福山市史』通説の見直し

昭和三十八年に発刊された、『福山市史』上巻・資料編・第一編の原始時代「備後の縄文遺跡と遺物」の遺跡の古さを判定する縄文土器遺跡編年表に依ると、洗谷と浜貝塚は揃って縄文後期と記載されている。此の記録は四十六年も以前のもので、今後作成する説明看板には、新研究と新資料も加え新視点から最新の情報を詳しく記載する運びとなった。

昭和四十年代福山市では急速に市街化が進められ、洗谷貝塚周辺でも農地の埋立て工事が進められた。そこで昭和四十六年八月、県と市の教育委員会に依る緊急発掘調査が行われた結果、従来の縄文後期土器以外に縄文早期・前期・中期の土器も新しく出土した。石器は四国坂出市金出産の安山岩の「集積(集石)遺構」が県内で最初に発見され四国との交流が明らかにされた。

私の家は洗谷貝塚近隣地の西方に建てられており、専門家によって作製された縄文貝塚推定図面からは除外されていた。平成九年春、我が家では初孫の誕生が日前となり、庭先の農地に設置していた危険な野壺を取壊すことに決定。取壊す際壺周辺を試掘したところ多量の縄文後期土器の発掘に成功した。

農地の表面には遺物は殆ど見当たらなくても、稀には土中に古代の遺物が包含されているものである。野壺を取壊し試掘した結果、貝塚が当初の推定面積より宏大であったことが立証された。

平成十年三月、私宅から二・五km南にある浜貝塚の車道を通っていたところ、偶然母屋改築の為の基礎工事に伴う底土(縄文土)の山積みを発見した。早速土地所有者の伊東さんに、「水呑町のため迷惑を掛けないから底土の調査をさせて欲しい」とお願いしたところ了承され、調査を行ったところ縄文の土器・石器・貝類・獣骨などを採取した。

発掘を終えた際には、浜貝塚が昭和八年の発掘面積より宏大であったことに満足していた。しかし、土器の中には明確に縄文後期の土器とは相違する、土器の厚さが三~五mm程度と薄い土器片も出土、器厚の薄い土器は縄文後期より古い時代の土器ではないかと推定していた。

この度浜貝塚の時代不詳の縄文土器の時代解明が必要となり、今春福山市にある県と市の土器等文化財に関係ある部署に、土器の年代鑑定をお願いしたところ好回答を得られなかった。

3、浜貝塚の縄文土器鑑定

平成二十一年六月二十七日・二十八日の両日、東広島市の廣島大学構内文学研究棟において、「中四国縄文研究会二十周年記念大会。第二回西日本縄文文化研究会・環瀬戸内地域の打製石器石材利用」が、中四国縄文研究会。関西縄文文化研究会・九州縄文研究会によって合同開催された。

大会の準備を進められたのは、洗谷貝塚の「集積遺構」から、中。四国地方の縄文後期の石器製作技術を解明され、洗谷型剥片剥離技術を学界に発表された廣島大学の竹広文明教授である。日本を代表される縄文文化研究の大家の集まりなので、私も大会に参加し浜貝塚の縄文土器の鑑定を行って頂けたら好都合と、願望を秘め竹広教授には無理は承知で大会に参加させていただいた。

大会二日目の二十八日午後、第二部の合同討論シンポジューム「環瀬戸内地域の打製石器石材利用をめぐって」が開催されシンポジュームの司会を、京都大学の千葉豊教授と小南裕一教授が行われた。

大会終了後同会場で、私が持参した土器の鑑定を司会された千葉教授にお願いしたところ快く引受けて頂いた。鑑定の結果は縄文時代後期・晩期の土器以外に、「縄文時代前期の磯の森式土器剥片十一個と、縄文時代中期の里木式土器剥片三個」があると鑑定していただいた。私が内心想定していた通り、浜貝塚は約六千年も以前から縄文人が定住していたことが明らかになった。

浜貝塚の中心部は、江戸時代から鞆福山街道となっていたらしく、周辺地は宅地変更が早くから行われると同時に、江戸時代後期になると宏大な新田開発のため貝塚破壊は進行し貝塚の境域は不詳となった。浜貝塚の周辺地においては洗谷貝塚と同様、縄文早期土器の出土の可能性も夢ではなくなった。

4、洗谷貝塚の安山岩原石

前述の洗谷貝塚の安山岩(サヌカイト)の集積遺構であるが、遺構は二カ所に有って原石の総重量は四十五kg余り、石数は三十四点もあった。集積遺構は県内の縄文貝塚や遺跡からは未だ発見されていない遺跡で、四国との交流を示す貴重な遺構と喧伝されてきた。

集積遺構は県内の縄文史を解明する文化遺産として、当初は高く評価されたのであるが、残念なことに市民に一度も公開される機会も無いまま、福山城の収蔵庫に三十八年間も死蔵され現在に至っている。

洗谷貝塚の集積遺構に着目された廣島大学の竹広文明教授は、昭和六十三年六月(『考古学研究』三十五巻に「中国地方縄文時代の剥片石器」―その組成。剥片剥離技術―)を発表された。次いで平成十五年二月、『サヌカイトと先史社会』と題し、洗谷貝塚の原石剥離の研究書を渓水社から刊行された。

両書に依ると、

サヌカイトは後期旧石器時代以降、瀬戸内を中心とした地域で石器の主要な石材として利用されている。瀬戸内技法という独特の横剥ぎの技法で、ナイフ形石器が作られている。

と、瀬戸内最初の石器製作技術を解説されている。縄文時代に入ると中国地方の剥片剥離技術は変化し、早期の早稲田山遺跡(広島市東区牛田早稲田山)では、

基本的には角礫・円礫といった原石を利用する。そのため安山岩・黒曜石・頁岩・流紋岩など多様な石材に対応した剥片剥離技術によって石器素材剥片を生産する石器製作技術である

と変化の跡を究明され、旧石器時代と縄文早期の石器製作技法の相違点を明らかにされた。

更に縄文後期の剥片剥離技術として、洗谷型技法では

金山産のサヌカイトと強く結び付いている。交互剥離による剥片生産も行われるが、石理の顕著な板状石材を素材として、石核の側面部から石理の強さを利用して効率的な石器製作がおこなわれていた

と新説を明らかにされた。縄文時代の後期になると縄文人の石器製作の敲打技術は進化しその時点での最高水準に到達していた。

吾々素人目には、旧石器時代の石器と縄文早期と後期の石器の割れ具合に変化が無い様に見えても、剥片剥離技術は大変進歩していたのである。竹広教授は集積遺構を手掛りとして研究された石器の剥離技術を、洗谷型又は洗谷技法と命名された。

考古学に於いては、最初に発見されたり最初に確認された遺跡名から型とか技法を名付ける慣例があり、集積遺構が糸口となり石器の剥離技術と貝塚名が結び付けられ洗谷技法と名付けられた。

洗谷貝塚の安山岩原石の活用方々に付いて、昭和の発掘報告書には石器の剥片屑に関しては何の記載も見当らない。剥片屑は不良品として無視され記録に止められなかった。

農地が埋立てられる以前の鞆鉄道の東側畑地と線路上には、表面が自色化した剥片の膨大な量の加工屑が散乱していた。同所は海抜三~四mの土地で海岸からは十m以上離れていたものと推定する。白色系剥片は石器を製造した際の石屑で縄文工房の跡を物語る石屑であった。

洗谷の縄文人は自給自足的な狩猟・漁猟・採集に加え、四国の金山から安山岩の原石を持帰り、原石の加工を通じて付加価値を高める工夫を行っていた。洗谷の集積遺構は県内の縄文石器の流通加工を考察する上で、学術上極めて重要な役割を果たしていたことが判明した。